源平・鎌倉・室町

「バカと話しても無駄」と突き放された三浦胤義|なぜ鎌倉を裏切った?

2025/07/05

北条義時の盟友として知られる三浦義村。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では山本耕史さんが何かと裏で立ち回り、冷徹すぎる言動で視聴者の心を寒からしめましたが、今回の注目はその弟・三浦胤義(たねよし)です。

劇中では、岸田タツヤさんが演じ、いかにも熱血漢といった雰囲気でした。

ただ、兄の義村とはいまいち相性がよくないのか。

胤義が何か発言すると「黙っていろ!」と頭ごなしに叱られ、しかも京都に送られ……。

一体この兄弟に何かあったのか?

史実の三浦胤義はどんな最期を迎えたのか?

1221年7月6日(承久3年6月15日)は、その命日。

承久の乱で兄や幕府と反目し、壮絶悲哀な死を遂げる三浦胤義の事績を振り返ってみましょう。

 


歳の差のある兄と弟

三浦胤義の父である三浦義澄には数多くの子供がいました。

『鎌倉殿の13人』の第1回放送から出ている兄の三浦義村は長男ではありません。

義村は生年が確定しておらず、長寛元年(1163年)に生まれた北条義時より5歳ほど下で、仁安3年(1168年)辺りの生まれと推測されます。

二人とも母は伊東祐親の娘で、義村には他に兄がいながら、嫡男となっています。

ドラマ第1回放送の安元元年(1175年)における義村は、まだ推定7歳前後であり、子役を使わず山本耕史さんが演じるには、かなり無理がありました。

劇中では、ほぼ同年のように見える三浦義澄と北条時政も、実はひと回り程の年齢差があります。

三浦義澄:大治2年(1127年)生まれ

北条時政:保延4年(1138年)生まれ

北条時政(右)と三浦義澄/wikipediaより引用

そんな義澄にとって、末子だったのが三浦胤義です。

平家が滅亡した元暦2年・文治元年(1185年)頃の生まれとされ、嫡男である義村とは親子ほどの年齢差。

義村が平家と戦っていた頃に生まれていますので、実戦経験もない弟の発言など、兄からすれば笑止千万に思えても仕方なかったことでしょう。

そんな胤義の名が記録に登場するのが、元久2年(1205年)に起きた【畠山重忠の乱】および【牧氏事件】でした。

 


三浦一門として幕府草創を見つめる

父・義澄が【十三人の合議制】に選ばれ、跡を継いだ義村は幕府で順調に出世していました。

しかし、成功しても三浦一族にとってストレスが溜まる状況だったことは推測できます。

三浦胤義にとって初陣にあたる【畠山重忠の乱】および【牧氏事件】は、陰惨なものです。

坂東武士の鑑と称された畠山重忠(月岡芳年画「芳年武者无類」/wikipediaより引用)

重忠は、舅である時政とその継室・牧の方(りく)によって死へ追い込まれ、その時政と牧の方も平賀朝雅の擁立を企んで失脚する。

親戚同士で謀略しまくって、一体何なんだよ!

ドラマをご覧になられて、多くの方がそう感じられたでしょう。

二つの事件で鎌倉が揺れた後、数年間は平穏な日々が続きます。

しかし、その平和は建暦3年(1213年)、三浦一族にとって酷い形で決裂しました。

【和田合戦】が勃発するのです。

北条義時と対峙した和田義盛。

和田義盛/Wikipediaより引用

彼は三浦一族における長老格であり、義村や胤義は、義盛とは共に三浦義明を祖父にもつ従兄弟同士でした。

しかし、その義村は義盛の動きを義時に密告し、同門を手にかけたのです。

結果、承久元年(1219年)正月、義村は千葉胤綱から「三浦犬は、友をくらふ也」と罵倒されたと伝わります。

鎌倉や御家人の間では、【和田合戦】の後、三浦一門を蔑む目線があったのでしょう。

兄と共に戦った三浦胤義が、その冷たい目線に悩んでいたとしても、無理のないことです。

 

頼家の妻子と三浦一門

『鎌倉殿の13人』では、三浦義村が北条一門の台頭に不満を抱いているような描写もあります。

三浦と北条は、もともと家格としては大差なかった。

それがなぜこうも水を開けられたのか?と父・義澄に語る場面です。

脚本の三谷氏がこうした描写にしたのも、義村の言動からの推察でしょう。彼がどこまで本気であったか不明ながら、野心があったとみなせる傍証はあります。

二代将軍・源頼家の正室である辻殿(つつじ)と、その子・善哉(後の公暁)と深い関係があるのです。

源頼家/wikipediaより引用

頼家の妻子には比企一門の若狭局と一幡がいるとはいえ、辻殿は河内源氏の血を引く名門。

跡目争いでは、逆転の可能性もありました。

頼家にはもう一人、注目すべき側室がいます。

一品房昌寛の娘です。

なぜ注目なのかと言うと、頼家の死後、三浦胤義がこの女性を妻としているのです。

彼女には、頼家との間にできた男児がいて、その子は出家して禅暁と名乗っていました。

もしもこの禅暁が鎌倉殿となれば、三浦一門にとっては大きな利となる。

そんな状況で迎えた建保7年(1219年)正月、鎌倉で大事件が勃発します。

公暁(出家後の善哉)が源実朝を暗殺したのです。

公暁

実朝たちに斬りかかる公暁/国立国会図書館蔵

事件を起こした公暁は、義村が送り出した追手によって殺され、空位となった将軍職にはもう一人の頼家男児である禅暁……とはなりません。

三浦胤義にしてみれば、妻の子ですから、擁立を企ててもおかしくない場面でしょう。

と、そんな野心を防ぐためか。

北条政子と義時は九条道家の子・三寅(のちの九条頼経)を鎌倉に迎え、源氏将軍の断絶を確たるものとします。

そして承久2年(1220年)、禅暁は誅殺され、さらにその一年後、実朝暗殺の衝撃をも上回る大事件が勃発します。

承久の乱です。

 


もうあの卑劣な兄・義村と北条には我慢できない

禅暁誅殺の翌年、三浦胤義は大番役として京都にいました。

任期が切れていたのに鎌倉へは戻らず、何か意図があって滞在し続けているのか?

そう疑われてもおかしくない状況であり、後鳥羽院の命を受けた藤原秀康が胤義を自邸に招きます。

後鳥羽天皇(後鳥羽上皇)/wikipediaより引用

酒を酌み交わしつつ、秀康はこう尋ねました。

「あなたは三浦からも鎌倉からも去り、京にいるのは何故でしょうか?」

胤義は切々と、妻への想いを語ったと言います。

憎き北条により、夫である源頼家を殺され、息子の禅暁まで殺されてしまった。

再婚しても泣き続ける妻を思うと、鎌倉が憎くてたまらぬ!

しかし、これはあくまで感情面での理由です。

当時は鎌倉と京都、どちらで力を持つか、定まらぬ時期でした。

鎌倉にいる兄・義村を上回るため、胤義に京都で地位を得たい野心があったとしても無理はありません。

彼は在京中に検非違使、九郎という名で判官にまで上り詰め、兄・義村の左衛門尉を超えました。京都であれば彼は兄を凌駕していたのです。

そこに目をつけたのが後鳥羽院。

胤義を使い三浦を掌中におさめれば、義時の側近ともいえる義村を操ることができる――鎌倉を内部から崩壊させるため、三浦は重要な駒でした。

 

兄弟が別れる【承久の乱】

承久3年(1221年)――藤原秀康が京都守護の伊賀光季を呼び出しました。

しかし、この伊賀光季の母は二階堂行政の娘であり、北条義時継室・伊賀の方(のえ)の姉妹にあたります。北条一族と縁が深く、後鳥羽院の召集には応じません。

そこで三浦胤義らは八百騎余を率い、伊賀光季の寝所を襲撃しました。

光季が門を開き、胤義に向かって叫びます。

「後鳥羽院に対して罪なぞないのにも関わらず、勅勘(勅命による勘当)を受けるとは何事か!」

「時勢に従ったまでよ。宣旨により召集され、貴殿を討つべく参じたのだ!」

多勢に無勢、追い詰められた光季は我が子の光綱を刺し殺し、炎の中に投げ込むと自害してしまいます。

後鳥羽院は、味方にしたかった……と光季の死を惜しみつつ、義時追討の院宣を出します。

北条義時イメージ(絵・小久ヒロ)

鎌倉へ宣戦布告すると、胤義はこう語ったとされます。

「院宣があれば、逆賊北条になぞ味方する者はおりますまい」

北条憎しのあまり見通しが楽観的になったのか。

さらにこう続けます。

「兄・義村は“烏滸ノ者(頭がおかしい・愚か者)”なので、日本国総追捕使の地位をちらつかせれば北条を裏切るでしょう」

そして使者を鎌倉に送るのです。

後鳥羽院による義時追討の院宣と官宣旨を持ち、鎌倉へ出立したのは下部(使用人)の押松でした。

しかし、この押松より前に、義村のもとへ三浦胤義の使者が到着。

胤義の書状にはこうありました。

【胤義の書状】

勅命に従い義時を誅殺すべし。そうすれば恩賞は望みのままである――。

義村は返事もせず使者を追い払うと、すぐさま義時と政子にこのことを知らせます。

「俺は胤義の誘いには乗らねえ。関東御家人として、無二の忠節を尽くすぜ」

義村が義時にそう誓うと、ただちに押松の捜索が開始。

程なくして捕縛されると、京都の陰謀が察知されます。

義時が朝敵とされていたことに鎌倉は動揺もしましたが、ここで立ち上がったのが姉の北条政子です。

絵・小久ヒロ

彼女は御家人たちに向かって名演説を行い、奮い立たせると、逆に藤原秀康と三浦胤義らが、鎌倉から「討ち果たすべき者」として挙げられます。

かくして三浦兄弟は分裂し、後は鎌倉方がどう出るか?

後鳥羽院の企み、その勝敗は義時らの意向にかかっていました。

 

馬鹿な弟・胤義と話しても無駄だ

迎え撃つか? それとも攻め込むか?

鎌倉幕府軍は進撃を選びました。

長距離を行軍すればするほど、軍勢は弱くなりますが、それでも幕府軍は京都へ向かったのです。

迎え撃つのは三浦胤義でした。

美濃国、続けて宇治川で幕府軍と対峙し、呆気なく敗北を続け、攻め手の北条泰時は、投降してくる相手に憤激していました。

「弓矢を取る武士ならば、京都についたら京都、鎌倉についたら鎌倉のために奮戦すべきだろう! それをノコノコ降参してくるとはゆるせん!」

投降してきた者をそうして梟首したこともあります。

京都方はあまりに弱かったのです。

義時の子である泰時は、こうした言動に恥じぬ名将ぶりを発揮します。

北条泰時/wikipediaより引用

彼は誠実で勇敢、味方を思いやる心がけもありました。

一方、京都方には味方を思う気持ち、士気が決定的に欠けています。

宇治川で繰り広げられた激戦のあと、三浦胤義は後鳥羽院の御所へ向かい、門前で訴えかけました。

「君よ、これは負け戦です。門を開けてくだされ、御所で戦いぬき、あらんかぎりの武勇を見せつけたく存じます! そのうえで討ち死にを遂げまする!」

「おぬしらが御所で戦ったら、鎌倉の武士どもが攻撃してくるではないか。そんなのはごめん被る。今はどこぞへ早う去ね」

後鳥羽上皇
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胤義は己の選択の過ちを悟りました。

かくなる上は東寺に立て篭もり、せめて兄の手にかかろう――そう決意を固めます。

そして鎌倉方がいざ京へ雪崩込むと、その中には義村の姿もありました。

「三浦義村よ、どこにいる? 本来鎌倉にいるべき俺がここにいるのは、兄が憎くて悔しくてたまらなかったからだ! だから院について兵をあげてしまった……が、俺は間違っていた。和田義盛を裏切るほど根っからの義時贔屓であった兄に、あんな書状を送るとはな。まだ人としての心はあるのか? お前の前で自害してやる!」

しかし、兄は冷静そのもの。

「馬鹿と話しても無駄だ」

そう言い残し、去っていくのです。

 

愛する妻に最期に一目だけでも

三浦胤義は、残った三浦一門の軍勢相手に奮闘し、洛西の太秦へと落ちてゆきました。

最期に愛する妻に一目だけでも会おうとしたのです。

しかし、太秦にある自邸はすでに鎌倉方が包囲。

全てを諦めた胤義は、

「兄貴も弟を見殺しにしたと言われるだろう……」

と語り、遺髪を切ると、子の三浦重連と共に自害したのでした。

郎党が屋敷に持ち帰った胤義の首は、義村が探し出して義時に届け、その後、首謀者とみなされた胤義一族は、乱の後、厳罰に処されました。

なぜ胤義はいとも容易く敗北してしまったのか。

彼は楽観的にも思えてきます。

乱が起こる前から、朝敵となった北条義時に勝ち目はないと豪語。

兄もすぐ味方につくと断言し、鎌倉に使者を送ってしまったのです。

あの使者を契機に、鎌倉は後鳥羽院が秘密裡に進めていた計画を察知し、怒涛の進軍を開始しました。

胤義は自分も反省したと言いますが、大きな過ちをしてしまったとしか言いようがありません。

何もかもが詰めの甘い人物に思えます。

そして、こうした言動の伏線が『鎌倉殿の13人』にありました。

畠山重忠に対し「取り囲めば勝てる!」と力強く断言し、義村に黙っているよう手厳しく注意されていたのです。

義村は愚かではありません。利に敏い人物として描かれています。

ただ、実利のために動き、周囲の目を気にしないことを愚かとするのならばその通りですが……。

兄弟仲の悪さも、揃った時点で見えてきています。

胤義は愚か者かもしれませんが、あの義村の弟ならば色々と辛い――そう思える秀逸な伏線が張ってある作劇といえます。

三浦兄弟の登場で、ドラマがより楽しくなったことは間違いないでしょう。


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【参考文献】
坂井孝一『承久の乱』(→amazon
坂井孝一『考証 鎌倉殿をめぐる人々』(→amazon
坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』(→amazon
細川重男『鎌倉幕府抗争史』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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