双六の最中、突然、斬られた上総広常。
一生懸命仕事をやりすぎて御家人仲間から嫌われ、京都へ行く途中に討たれてしまった梶原景時。
惨い死に方で御馴染みだった大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。
最後の最後、【承久の乱】に絡んで、哀しい最期を迎えた武士の名前を覚えてらっしゃいますか?
藤原秀康です。
ドラマでは星智也さんが演じましたが、承久の乱の放送より少し前の11月27日、隠岐開発総合センターでトークショーが開催され、三浦胤義役の岸田タツヤさんと共に登壇されました。
NHKさんも、実に遊び心のある取り計らいをするものです。
隠岐島と言えば後鳥羽上皇の配流先。
藤原秀康はその配下であり、承久の乱では朝廷軍を率いて戦っていたのですが、最後の最後に後鳥羽上皇からこっぴどく裏切られ、失意のまま捕縛されて斬られるという終わり方なのです。
それが承久3年(1221年)10月14日のこと。

本稿で、藤原秀康の生涯を振り返ってみましょう。
藤原秀康は和田一族の生き残り?
藤原秀康とは一体どんな人物なのか?
彼の生涯に着目しますと、まず父親の藤原秀宗について、こんな因縁が語られたりします。
和田三郎宗妙の子である――。
和田三郎宗妙とは、あの和田義盛の弟・和田宗実の子であり、「和田一族の出である」という点は注目されます。
※以下は和田義盛の生涯まとめ記事となります
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坂東武者のカリスマ・和田義盛|愛すべき猪武者は滅亡へ追い込まれる
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しかし年齢差などを考慮すると、秀康が和田一族の血を引くには無理があり、噂話の域を出ません。
問題は「なぜ、そんな話が出回ったのか?」ということ。
実は、和田義盛の孫である和田朝盛と混同された可能性も考えられます。
朝盛は和歌の才があり、源実朝とも親しい人物でした。
それが【承久の乱】では朝廷に味方して参戦したため、戦後に捕縛され、消息は不明。
藤原秀康もまた同乱では朝廷方の武士でしたので、朝盛との混乱が生じたというのはあり得るでしょう。
さらには……。
【承久の乱】では、三浦一族もなかなか際立った動きをします。
三浦義村(ドラマでは山本耕史さん)の弟である三浦胤義が朝廷方となり、兄弟間で激突が生じるのです。
和田一族も、元を辿れば同じ三浦一族。
後鳥羽院が、鎌倉御家人たちの不安不和を煽るため、三浦や和田を突っつけば、話としては盛り上がる。
そんな数々の因縁に、藤原秀康が絡められた話といえそうです。
しかし秀康は、坂東との関わりはそう深くありません。
北面武士、西面武士を務める西国の武士であり、国司を歴任している内に、後鳥羽上皇の倒幕計画に適任者だとされたのです。
相手は、血で血を洗う争いを長く続けてきた坂東武者。
朝廷軍では、圧倒的に実戦の経験が足りず、藤原秀康の運命は決まっていたようなものでした。
三浦胤義の引き込みに成功
北条義時を討つ――そう決意した後鳥羽院が挙兵するにあたり、まず何をしておくべきか。
準備段階として、ある人物を味方にするよう藤原秀衡に命じました。
「三浦義胤を味方に引き入れよ」
前述の通り、三浦義村の弟であり、立場を考えればかなり難しそうな状況ですが……。
実はこのときの三浦義胤は、京都の警備を担う「大番役」の任期が切れても一向に鎌倉へ戻らず、何か意図があって京都に滞在している――そう思われてもおかしくはない状況でした。
そうした情報に後鳥羽院が目をつけたのでしょう。
後鳥羽院の意向を受けた藤原秀康が、自邸に胤義を招き、酒をすすめます。
「あなたは三浦からも鎌倉からも去り、京にいるのは何故でしょう?」
「妻子の無念を思うと……」
胤義は、切々と語ります。
彼には、一品房昌寛の娘という妻と、その連れ子・禅暁という義理の息子がいました。
一品房昌寛の娘はもともと二代目鎌倉殿・源頼家の側室であり、禅暁はその子供。
頼家の息子と言えば公暁が有名ですが、禅暁はその異母弟という間柄になります。
事件は、建保7年(1219年)正月、起きました。

公暁に暗殺された源実朝・背景には北条義時の姿も囁かれ……/Wikipediaより引用
空位となった将軍職には、九条家から迎えた三寅(のちの九条頼経)に決まり、源氏将軍は断絶が確定。
次の将軍候補として誰かに担ぎ上げられる危険性のある禅暁は、承久2年(1220年)4月、誅殺されました。
「我が子を殺されて泣く妻を見ていると、北条だけは許せない!」
そう訴える胤義。
かくして秀康は、容易く味方の陣営へ引き込むことに成功したのでした。
京都守護・伊賀光宗を討つ
幕府の中枢にいる三浦義村、その弟・三浦胤義を味方に引き込み、幸先よし――上皇方は次の一手を打ちます。
承久3年(1221年)5月、今度は京都守護の伊賀光季を呼び出しました。
彼もまた鎌倉と縁が深い人物です。
伊賀光季の母は二階堂行政の娘であり、北条義時の継室・伊賀の方(のえ)の母とは姉妹。
つまり光季と伊賀の方はいとこ関係ですね。
義時は、伊賀の方が産んだ息子・北条政村を寵愛しており、北条家と伊賀家の結びつきは弱くありません。
政村が義時に可愛がられたからこそ、その死後、伊賀一族が野心を暴走させる一因になったとも指摘されたりするほどです。

伊賀氏の変の原因ともなった北条政村(義時と伊賀の方の男児)/wikipediaより引用
そんな伊賀一族出身の伊賀光季ですから、後鳥羽院の召集には応じません。
すると三浦胤義らは、八百騎余を率いて伊賀光季の寝所を襲うという大胆な行動に出ます。
光季は、門を開き、相手の非を叫びました。
「後鳥羽院に対して罪なぞないのにも関わらず、勅勘(勅命による勘当)を受けるとは何事か!」
「時勢に従ったまでよ! 宣旨により召集され、貴殿を討つべく参じたのだ」
唐突に襲撃され、応戦すらままならない光季は、我が子の光綱を刺し殺して炎の中に投げ込むと、自らも自害して果てました。
果たして光季の死は、朝廷陣営にとって狙い通りだったのか?
実は後鳥羽院は「味方にしたかった」と光季の死を惜しんでいましたが、義時の姻族を殺したからにはもはや後戻りはできません。
伝家の宝刀「院宣」
後鳥羽院は伝家の宝刀「追討の院宣」を出します。
「院宣があれば、逆賊北条になぞ味方する者はおりますまい」
まだ何も始まっていないのに、それだけで上皇方は意気軒昂。
すっかり調子に乗った三浦胤義も付け加えます。
「兄の義村は“烏滸ノ者”(頭がおかしい・愚か者)なので、日本国総追捕使の地位をちらつかせれば裏切るでしょう」
それにしても、胤義はなぜここまで強気になれたのでしょう。
義村が相当な野心家だったから?
普段から身近にいて、そう思えた?
いずれにせよその意見を受け容れた後鳥羽院は、義時追討の院宣と官宣旨を携えた使者・押松を鎌倉に向けて出発させました。

後鳥羽天皇(後鳥羽上皇)/wikipediaより引用
同時に、押松とは別の使者も出され、こちらは三浦義村を訪ねます。
むろん、義村を朝廷陣営へ誘うためですが、その書状に目を通した義村は、使者を追い払うと、すぐさま北条義時と北条政子に京都の動乱を知らせ、二人に無二の忠誠を誓います。
鎌倉では押松の捜索が始まり、これを捕縛。
かくして京都の陰謀は事前に察知されてしまうのでした。
藤原秀康と三浦胤義だけは許すな
朝廷の院宣を見た鎌倉幕府は動揺します。
北条義時が朝敵とされていたからです。妻の伊賀の方(のえ)も怒り狂ったことでしょうが、そこで立ち上がったのが北条政子でした。
御家人たちを奮い立たせる名演説を行い、必ず討ち果たすべき者として二名を挙げたのです。
三浦胤義と藤原秀康は、なんとしても討ち果たすべし――。
藤原秀康は鎌倉方の怒りをぶつけられる筆頭の存在となってしまった。
とはいえ、いきなり敗戦の将という感覚はないでしょう。
我々は結果を知っているから、いつも敗者の将たちを甘く考えてしまいがちですが、そもそも勝敗の要素となる力関係が測りきれないからこそ合戦となるものものです。
それは【承久の乱】とて全く同様で、政子の演説後、幕府も頭を抱えていました。

北条政子(江戸時代・菊池容斎画)/Wikipediaより引用
京都から攻めてくる敵を迎え撃つか?
それとも進軍するか?
相手には院宣もあるばかりか、三浦義村と胤義のように、同族で鎌倉と京都に分かれている者もいる。
京都までという長距離を行軍するには馬や兵糧の問題もあり、決してラクではないどころか、敵の勢力圏内に近づけば不利は避けられない。
百戦錬磨の義時ですら、迷いました。なかなか踏ん切りがつかない。
大江広元が出撃すべきと訴え、高齢で自邸にいた三善康信にも意見をうかがいます。
「グズグズなさっているのは遺憾。将軍一人でも出立なさるべきでしょう」
宿老二人の意見を聞き、鎌倉は動きます。
義時の子・北条泰時が意を決して出撃したのです。
まだ一枚岩でもない鎌倉方でしたが、義時の子である泰時が自ら先頭に立って出陣したことにより、流れは大きく幕府へ傾きます。
雪崩れ込むようにして、坂東武者群が京都へ。
そんな激流を迎え撃つ大将軍が、藤原秀康と弟の藤原秀澄でした。
しかし果たして京都では、どれだけ戦争のことを実際に起こりうるものとして想定していたのでしょう?
もろくも崩れゆく朝廷方
まさか自分たちが攻め込まれるとは思っていなかったか。
あるいは院宣さえ出せば、鎌倉幕府が勝手に崩れると考えていたか。
後の朝廷軍の、あまりに呆気ない崩れ方からして、幕府軍が京都を目指して進軍してくることは、完全に予想外だったのではないでしょうか。
朝廷が院宣を出す
↓
幕府は動けなくなる
↓
武士、御家人たちの間に蔓延する不信感
↓
鎌倉幕府は自壊する
確かに、こうした流れになっていれば、朝廷軍でも勝利できたかもしれませんが、結局、北条泰時らを先頭に幕府軍が攻め上がってきた。
兵数はいかほどだったか?
どのくらいかと言いますと、相当誇張のうえで記されていて、攻める幕府軍10万に対し、朝廷軍はおよそ1万9千騎です。
実際は数分の1でしょうけど、それでも幕府軍と朝廷軍の兵力差は歴然。
しかも藤原秀康は、そのうち1万2千騎を12箇所に分散させて配置していました。
大軍を寡兵で破るには、兵力を集中させての一点突破が良さそうなものですが、朝廷軍はなぜかこうした陣形に固執するのです。
かろうじて士気が高かったのは、軍勢を集結させる策を取った美濃源氏の山田重忠ぐらいで、結局、他の軍勢はすぐに崩壊。
秀康も負傷し、京都へ逃げ帰るしかありませんでした。
朝廷軍の敗北を知り、後鳥羽院は愕然としました。
もはや藤原秀康など頼りにならん……とばかりに、延暦寺の僧兵に期待をかけますが、果たしてどれだけ頼りになるか。
僧兵は神罰を後ろ盾にして強訴で暴力を振るうし、寺が攻められたら対抗はします。
そうした際、個人的戦闘力が発揮された悪僧の記録もありますし、実際、強かったのかもしれません。
しかし、個と集団の武勇は別物です。
怒涛のように押し寄せる坂東武者をどうこうできるはずもない。
もはや震えるしかない後鳥羽院ですが、本気で京都を守る気があれば、地の利(メリット)がないわけじゃありません。
川です。
京都市内にはいくつかの河川がありますが、渡河の最中は防御できないため、最も危険とされます。守る武士たちが本気であれば、そこをうまく使って防御できたでしょう。
実際、幕府方が川を渡る際に苦労した話も残されています。
しかし、朝廷軍は呆気なく敗れます。
後鳥羽院に見捨てられる
朝廷軍は、なぜ地の利を活かせなかったのか?
そこには「人の和」の差が見て取れます。
北条泰時のもとには、主君のためなら命も惜しまぬ武士が駆けつけました。

北条泰時/wikipediaより引用
泰時は彼らの言動に感激し、労わります。
一方で後鳥羽院は酷かった。
使い者にならなくなったと思うと、いとも簡単に見捨ててしまうのですが、それこそが最大の失敗だったのではないでしょうか。
承久3年(1221年)6月、幕府軍に宇治川を突破された藤原秀康たちが、後鳥羽院の元へ向かうと、こんな風に言われてしまうのです。
「おぬしらが御所で戦ったら、鎌倉の武士どもが攻撃してくるではないか。
そんなのはごめん被る。今はどこぞへ早う去ね」
なんという心無い言葉でしょうか。
それでも見捨てられた朝廷方の武士は、最後の奮戦を果たし、一人、また一人と散ってゆきました。
後鳥羽院は、自らの「叡慮(賢明な判断の意・君主の判断をさす)が兵を起こそうとしたのではなく、“謀臣”に乗せられただけだ」と切断処理の弁明を始めます。
河内で捕縛され処刑
後鳥羽上皇は隠岐へ。
順徳上皇は佐渡へ。
乱に全く関わりが無かった土御門上皇も土佐(後に阿波)へ。
承久3年(1221年)7月に主な戦後処理が終わっても、幕府軍は京都で睨みを利かせることとしました。
京都守護に代わって六波羅探題を置き、朝廷や西国の武士らを監視することとしたのです。
すると同年9月、藤原秀康・秀澄兄弟が南都に潜伏しているとの知らせが六波羅にもたらされ、北条時房が家人に捜査を命じました。
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藤原秀康兄弟は、河内に逃れたものの10月6日に捕縛され、六波羅への護送後に斬られました。
歌人としても有名な武士であった弟・藤原秀能は兄たちよりも幸運でした。出家して罪を許され、隠岐島に向かい後鳥羽院を慰めています。
★
藤原秀康の生涯は、あまりに苦い結末でした。
誰かに殉じるわけでもなく、誰かを守るわけでもなく、何の救いもない敗死。
主君である後鳥羽院からは最後の最後で呆気なく裏切られ、ただただ気の毒でむごたらしく、何の見せ場もありません。
同じ武士でも戦略の選び方が無茶苦茶です。
特に、数に劣る兵力を分散させたのは致命的。
とはいえ、秀康だけが責められる話でもないでしょう。
【承久の乱】は、真の大将である後鳥羽院が、適切な状況把握をしていなかった――この一点に尽きると思います。
幸か不幸か、秀康は初動が良すぎた。
三浦胤義を味方に引き込み、伊賀光季を一気に討ち取った。
しかし、ここで失敗していた方がよかったかもしれません。
楽勝ムードで悠長に構えることなく、少しは必死に戦う武士も現れたのではないでしょうか……とそんなことを考えても致し方ないことですね。
藤原秀康――後鳥羽院と時代に翻弄された悲運の人物でした。
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【参考文献】
坂井孝一『承久の乱-真の「武者の世」を告げる大乱』(→amazon)
坂井孝一『考証 鎌倉殿をめぐる人々』(→amazon)
坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』(→amazon)
細川重男『鎌倉幕府抗争史』(→amazon)
他







