大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主役・北条義時。
長寛元年(1163年)に生まれ、元仁元年(1224年)に62歳で亡くなるまで、粛清と陰謀にまみれた生涯でしたが、救いは北条泰時という息子を持ったことでしょう。
人格者である泰時には正々堂々と明るい道を歩んでほしい。
そのためには父が汚れ役をすべて引き受けよう――。
そんな都合の良い妄想も抱いてしまいますが、実は北条義時にはもう一人、非常に優秀な息子がいたのをご存知でしょうか。
義時の五男となる北条政村です。
泰時のように派手でわかりやすい事績が少ない代わりに、実直勤勉に職をこなし続け、なんと元寇前年の文永10年(1273年)5月27日で亡くなる直前まで、政治家として働き続けたのです。
しかも母は【伊賀氏の変】で伊豆へと追放されてしまった伊賀の方(のえ)。
ドラマでは菊地凛子さん演じる性悪女であり、本来ならこの政村も、母の政変に巻き込まれ流浪の身になってもおかしくなかったのに、なぜ政権の中枢で働き続けることができたのか。
北条政村の生涯を振り返ってみましょう。

北条政村/wikipediaより引用
理不尽な畠山重忠の死
元久2年(1205年)6月22日――我が子の北条政村が生まれたその日、北条義時は喜ぶどころか激怒し、号泣していました。
この日、【畠山重忠の乱】で重忠親子が討伐されたのです。
北条時政とその継室・牧の方(りく)に命じられた、あまりに理不尽な散り際。
昔馴染みで戦友で義理の弟でもある重忠の首を見て、義時は涙が止まらなかった。

坂東武士の鑑と称された畠山重忠(月岡芳年画「芳年武者无類」/wikipediaより引用)
『鎌倉殿の13人』では、北条泰時が上総広常の生まれ変わりであるような演出が見られたため、政村も重忠の生まれ変わりではないか?という推察もありました。
しかし、です。
名前にせよ、後に辿る運命にせよ、政村には他に境遇が似通った人物がいます。
北条政範です。
他ならぬ北条時政と牧の方(りく)の間に出来た男児であり、義時にとっては異母弟。
この北条政範は、若くして呆気なく死んでしまいますが、亡くなる直前、畠山重忠の子・畠山重保と口論になった経緯がありました。
そこでドラマでは、動揺した牧の方(りく)が、畠山重保が政範殺害に関与したと誣告(ぶこく・虚偽を含んだ報告)されます。その怒りが無実の畠山父子を滅亡へ追い込む展開でした。
この展開には脚色がありましたが、時政と牧の方(りく)の夫妻が跡取りとしていた政範が早逝したため、次なる悲劇が生まれた事は間違いないでしょう。
父子は後妻に籠絡される
北条政範と北条政村――この叔父と甥は、名前の「政」にとどまらない共通点も多いのです。
◆後妻かつ正室の女性が母である
・政範(母:牧の方)
・政村(母:伊賀の方)
◆兄とは親子ほどの年齢差がある
・義時と政範は26歳差
・泰時と政村は22歳差
◆母は京都に縁がある
・牧の方(りく)は京都出身
・伊賀の方(のえ)は京都から来た文士・二階堂行政の外孫
◆母は野心家である
・牧の方(りく)は念願の男児を授かり、ゆくゆくは北条家を継がせるつもりだった。この場合、最年長の義時は、江間を継ぐことになる
・伊賀の方(のえ)我が子に北条家を継がせるつもり。北条がそのまま鎌倉の頂点に立てばしめたもの
北条政範と北条政村、二人の母がどれだけ似ているか?
実は劇中でも認識されていて『鎌倉殿の13人』の第40回では、北条政子と阿波局(実衣)が、伊賀の方(のえ)のことを
「まるで牧の方(りく)のようだ」
と顔を見合わせながら囁いていました。
まさに姉妹の勘が的を射ている一方、北条義時のだらしなさはどうしたことか。

江間小四郎義時こと北条義時/国立国会図書館蔵
畠山重忠が死に追いやられるほど、義母に操られる父の大失態を目にしておきながら、自ら似たようなことを繰り返している。
劇中で野心満々の妻に対し、実に脇が甘い。
コロリと参っていて、時政と義時の父子が、実は悪いところで似ていたのか、その判断の甘さが失敗に繋がるんでは……と、そんな伏線まで貼られているようでした。
「四郎」を継ぐ者
ポイントとなる『鎌倉殿の13人』第38回の副題は「時を継ぐ者」でした。
この回で父の北条時政と訣別した北条義時は、「時政」から「義時」への流れで「時」を継ぎ、そして後に「泰時」の「時」へと引き継がれてゆきます。
北条政村は「時」の流れからは外れてますよね。
しかし、実は父と祖父から継いでいる名があります。
仮名(けみょう)の「四郎」です。
時政は「四郎」が仮名であり、ドラマでは幼馴染の設定である佐藤B作さん扮する三浦義澄が、そう呼びかけていました。

北条時政(右)と三浦義澄/wikipediaより引用
そして義時の「小四郎」。
兄の北条宗時が三郎で、弟の北条時房は五郎なのに、なぜ「四郎」にだけ「小」がつくのか?
というと、父が「四郎」だったからであり、「小」は英語圏で言うところの「ジュニア」みたいなものですね。
政村は「四郎」です。彼には3人ではなく、兄が4人います。
泰時、姫の前(比奈)を母とする朝時と重時。
『鎌倉殿の13人』には登場しない伊佐朝政の娘を母とする有時。
つまり、本来、政村は「五郎」となるはずです。
それを敢えて「四郎」とする。しかも、政村の元服は兄たちよりずっと早い。
『吾妻鏡』に「相州(義時)鍾愛の若公」と記されるほど、愛された形跡があるのです。
ゆえに政村が自分のことを「特別だ」と思ったとしても仕方ありません。
たとえ本人が謙虚でも、母とその一族には大きな野心がありました。
「村」を継ぐ者
政村は「時」の流れからは外れましたが、名前にはもう一字あります。
「村」です。
建保元年(1213年)5月に【和田合戦】が起こり和田一門が滅亡すると、三浦義村は、三浦一族における宗主としての立場が盤石となりました。
和田義盛は、もともと三浦義明長男・杉本義宗の息子であり、一族内で非常に力を有していました。
三浦義村に一族宗主の座は譲っていましたが、発言力は抜群。
義盛は多くの御家人からも支持されていました。

和田義盛/Wikipediaより引用
そんな和田義盛が滅びたことにより三浦一族における義村の立場が強まったのですね。
同年末、北条政村は9歳で元服を遂げ、四郎政村と名乗りますが、このとき烏帽子親をつとめたのが三浦義村であり、彼から「村」を継ぎました。
藤原定家の日記『明月記』において、義村は前漢の張良、陳平に例えられた上でこう記されています。
義村の八難六奇の謀略、不可思議の者か。
何かにつけ策士だとされる三浦義村からすれば、義時五男の後見役となることは政権内での自身の地位を高め、相互利益になる一手でした。
権力の高みにのぼるにつれ、多方面から敵意を抱かれる義時にとって、愛する我が子を守る手立てとなったのです。
そんな両者の意図が一致して、三浦義村が烏帽子親となったのでしょう。
おそらく伊賀の方(のえ)も心強かったと思われます。
承久の乱そして父の死
時は流れて建保7年(1219年)1月27日、鎌倉幕府を揺るがす大事件が起きます。
源実朝が公卿に暗殺されたのです。

実朝たちに斬りかかる公暁/国立国会図書館蔵
しかも事件もようやく落ち着いたであろう2年後の承久3年(1221年)、今度は【承久の乱】が勃発。
このとき、京都守護の伊賀光季は後鳥羽院の誘いを拒み、攻め殺されました。
伊賀光季の母は二階堂行政の娘であり、北条義時継室・伊賀の方(のえ)の姉妹にあたります。伊賀の方(のえ)はじめ伊賀一族は、さぞかし憤りを覚えたことでしょう。
【承久の乱】は、後鳥羽院ら京都方が、北条義時の鎌倉方に憤っていたことが一因として考えられています。
そこで鎌倉と京都が一致団結するため、京都に縁があり伊賀の血を引く北条家当主がいてもよいのでは? と考えられてもおかしくはありません。
浮上してくるのが、京都と縁深い伊賀一族の血も引く北条政村です。
跡継ぎになるのは北条政村とすべきか、それとも北条泰時か?
結論を出すべき北条義時は、伊賀の方(のえ)との間に最後の子となる女児(一条実雅室・後に唐橋通時室)を授かるという嬉しい出来事もありながら、元仁元年(1224年)6月13日に急死してしまいます。
享年62。
直前まで活動記録があったせいか。突然死んでしまった北条義時の死因については、伊賀の方(のえ)による毒殺説が当時から囁かれていました。
そうかと思えば後鳥羽院を島流しにした祟りとも噂されます。
かように諸説ありますが、年齢からして病死は何ら不思議ではなく、『吾妻鏡』には「脚気」と「霍乱」を患っていたことが記されてます。
それは一体どんな病気なのか?
詳細については以下の記事をご覧いただくとして、
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史実の北条義時は一体どんな最期を迎えたのか?死因は意外なアノ病気
続きを見る
義時が相続に際して残した問題を考えてみましょう。
・義時は後継者を指名していなかったようだ
・伊賀の方(のえ)及びその一族は確かに不穏な動きをしていた
・ちらつく三浦義村の影
北条義時が没した時、長男の北条泰時は京都にいました。

北条泰時/wikipediaより引用
そして一報を聞きつけるや急遽鎌倉へ。
大江広元に向かって「執権の座を目指すのは早すぎるのではないか?」と尋ねると、そこで恐るべき事態を聞かされます。
北条泰時が、弟の北条政村を討ち果たそうとしている! 我々の手で守るべし!として伊賀一族が集まってきているとのこと。
伊賀一族は、北条泰時が執権となることに怒っていました。
まぜまら伊賀の方(のえ)が、娘婿・一条実雅を鎌倉殿とし、政村を執権に据えようとしていたのです。
北条にとっては危機的な状況でした。
伊賀氏を率いる伊賀光宗は【承久の乱】で討たれた光季の四歳下の弟であり、泰時と同世代。
外祖父・二階堂行政の死後、政所執事(別当に次ぐ二位)となっていました。
伊賀一族が政村の後ろ盾にいるとなれば危うい。
しかし血で血を洗う抗争は避けるに越したことはない。
ここで尼御台こと北条政子が動きます。
伊賀氏の変
政村の後ろ盾には三浦義村もいます。
政子は女房一人だけをつけ、自ら義村の元へ向かいました。
そして疑惑を究明します。
「近頃ここに伊賀一族が出入りしているそうですね。鎌倉を騒がせている原因はここにあるのですか? どういうことなの?」
「実は伊賀氏に陰謀がありまして……」
「何を言うのですか、次の執権は太郎泰時です!」
政子は泰時こそが次の執権であると強く言い聞かせます。

絵・小久ヒロ
これには義村も折れ、伊賀光宗の説得に向かうしかありません。
泰時、広元、政子、そして義村へ繋がる一連の動きにより、伊賀氏の計画はついに粉砕、関係者も処分されました。
将軍に擁立されかけた一条実雅は、公卿であるため京都に処断を任され流罪へ。
伊賀の方(のえ)は伊豆北条へ流されると、心労のためか、配流後間も無く没します。
光宗は政所執事を罷免され、信濃に流される。
流血はない穏当な処断でした。
しかもここで政子はさらなる温情を見せます。
「四郎はまだ若いのだから、寛大に扱いましょう」
伊賀一族の多くが鎌倉を追われる中、政村は残され【伊賀氏の変】は終わったのです。
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なぜ義時の妻・伊賀の方は「伊賀氏の変」を起こした?政子が幕府を守る
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穏当な処断は「泰時執権」時代らしいスタートと言えるでしょう。父の義時とは異なり、流血を回避する時代が訪れたのです。
命を奪われてもおかしくない状況で、伯母と兄の温情で助かった若き政村。
弟・実泰とともに北条に忠義を尽くす人生となります。
弟・実泰は政村と同じく伊賀の方(のえ)を母としており、承元2年(1208年)に生まれていました。
しかし、この事件のショックに耐えきれなかったのか、27歳という若さで嫡男に家督を譲り、出家してしまいます。
時尚という弟もいましたが、生没年未詳であり、かつ活躍は記録されていません。
若き執権を支える連署となる
北条泰時のもと、北条政村は一族の一員として兄を支えます。
延応元年(1239年)に35歳で評定衆に就任にすると、翌年に筆頭。
しかし、名執権である泰時が仁治3年(1242年)に没すると、にわかに情勢にほころびが見え始めます。
4代執権には泰時の孫である北条経時が19歳で就任するのですが、身内も含めた周囲の者たちは新体制を軽んじる態度を取り始めます。
泰時と同世代の者も数多くが現役であり、彼らにしてみれば経時ら若造は幼く見えて仕方なかったのでしょう。
例えば、義時と姫の前(比奈)の子・北条朝時、その嫡男である名越光時はこう豪語していたとか。
「俺は義時の孫だ。(5代執権の)時頼など義時の曾孫ではないか」
孫ですらこんな調子ですから、義時の子である北条政村は執権職についてどう感じていたのか?
自らが就任したいと考えたのか。それとも……。
彼には経験があります。
年相応の落ち着き、分別も備えていたはず。
北条が辿ってきた道筋からして、容易に権力へ近づいてはならない――つまり執権の座を狙ってはならないと悟っていたのではないでしょうか。
寛元4年(1246年)に北条経時が病で夭折すると、5代執権にはまだ20歳の北条時頼が就任しました。

北条時頼/wikipediaより引用
2代も若い執権が続くと政治が不安定化するのでしょう。
翌年の宝治元年(1247年)には、ついに三浦一族が滅亡へと追い込まれてしまう【宝治合戦】が勃発。
名付け親である三浦義村の子孫が滅んだとき、政村はすでに43歳になっていました。
政村は順調に地位を高めてゆきます。
建長元年(1249年)12月に引付頭人になると、建長8年(1256年)、兄・北条重時(母は姫の前)の出家引退に伴い、52歳で連署の地位へ。
連署とは、北条時房以来、執権を支える第二位、いわば右腕、再側近のポジションです。
ついにここまで上り詰めた。
この年には5代執権・北条時頼も出家と引退を表明していました。
政治的な実権は保たれていたものの、時頼は自身が病弱であることを理解していたのです。
そこで建長8年(1256年)、嫡男・北条時宗に執権の座を譲るまで、中継ぎとして重時の子・北条長時を指名したのですが、この長時も病に倒れてしまい、文永元年(1264年)に没してしまいます。
そして巡り巡ってついに、7代執権の座が政村にめぐってきたのでした。
7代執権として8代時宗を導く
まさかまさかの執権職――もはや引退していてもおかしくない文永元年(1264年)7月、60歳での就任です。
連署には14歳の北条時宗が就き、二人で協力して難事に挑む北条政村の治世が始まります。
文永5年(1268年)になると、3年7ヶ月務めた執権職を8代・時宗に譲りましたが、政治上は引退せず、今度は連署と侍所別当を担いました。

北条時宗/wikipediaより引用
よもや永遠に政治家を続ける気ではあるまいか?
そんな突拍子もない冗談が浮かんできそうになった文永9年(1272年)2月、またしても北条一族の内紛が起こります。
北条氏名越流(姫の前を母とする北条朝時が祖)の名越時章・教時兄弟と、六波羅探題南方であり時宗の異母兄でもある北条時輔が謀反を企てたのです。
【二月騒動】と呼ばれるこの事件が起きる頃、海の向こうからは未知の脅威が迫っていました。
金と南宋を倒し、中国を支配した元から敵意を向けられていたのです。
いわゆる【元寇】ですね。
属国になれ――そんなモンゴルからの一方的な要求を突っぱね、真正面からの戦闘で返り討ちにしてやった鎌倉武士、北条時宗、すごい! という見方は不正確です。
戦争にまで発展してしまったのは、王朝との交渉経験が少ない鎌倉幕府の対応に問題があったことも考慮せねばなりません。
幕府は、外交の作法にあまりに無頓着でした。
京都の朝廷とは異なり、外交経験が不足していたのです。
江戸時代末期の幕末は、政治と外交から遠ざかっていた朝廷が幕府の方針に異議を唱えたことが一因となり、政局が混乱しています。
京都の朝廷か?
関東の幕府か?
行政のトップが二ヶ所にあるような状態が外交において混乱を来す状態は、鎌倉時代から江戸時代まで続くこととなります。
なお、元寇に一応の勝利をした北条時宗ですが、このとき北条政村は?
元寇から時計の針を1年戻し、文永10年(1273年)5月、政村は出家をしました。そして常盤院覚崇と号すると、同月27日、69歳で亡くなってしまうのです。
都流の教養を身につけていた政村は、京都の公家衆からも哀悼の意を示されています。
北条政権における生き字引だった政村
2代執権・義時の子であり、3代執権・泰時に命を救われ、自らが7代執権を務めると、8代執権・時宗の政治を支える――。
まるで北条政権の生き字引のような北条政村。
彼がもしも泰時に誅殺されていたら、鎌倉時代前期はここまで安泰ではなかったかもしれません。
『鎌倉殿の13人』での義時は最期は凄絶なものだと予告されています。
あれほど父・時政と義母・牧の方(りく)の政治工作に呆れていたにも関わらず、まったく同じ醜態を繰り返してしまう義時と伊賀の方(のえ)。
しかし、史実における事件の結末は、時政・義時時代と比べ、はるかに綺麗にまとまりました。
政村は生き延び、幕府を支える礎となったのです。
彼は両親の悪いところではなく、良いところを受け継ぎました。
父からは勤勉さ。
母からは京都流の風雅。
鎌倉と京都の良いところを持ち合わせた人物が、蒙古襲来という新たな困難に立ち向かう時宗の政治的な師となった――これぞ歴史の滔々たる流れであり、ひとつの運命にも思えます。
『鎌倉殿の13人』終結後の時代も、歴史は流れ、進化してゆく。
北条政村が継いだものは、父や叔父、兄のように鎌倉を背負い、支えてゆく覚悟でした。
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【参考文献】
細川重男『鎌倉幕府抗争史』(→amazon)
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坂井孝一『考証 鎌倉殿をめぐる人々』(→amazon)
坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』(→amazon)
他






