主人公の北条義時に関わった者もそうでない者も、登場人物が次々に無惨な最期を遂げていった大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。
中盤に入ると
・源氏
・比企氏
・北条氏
の三つ巴でトラブルが激化しましたが、この三氏に縁の深い重要人物がいました。
平賀朝雅です。
源平合戦に参加していないせいか、武士らしい武勇伝がないせいか。
知名度こそ低いですが、当時の鎌倉では最高ランクの血縁であり、だからこそ最期は北条時政とその後妻・りく(牧の方)と深く関わり、巻き込まれるようにして討たれてしまう悲劇の御方です。
一体何が起きたのか?
ドラマのように将軍職を狙った容疑で誅殺されてしまったのか?
時政とりくの関係をおさらないしながら、元久2年(1205年)7月26日に討たれた平賀朝雅の生涯を史実面から振り返ってみましょう。
北条時政は京都志向
北条時政とその後妻りく(牧の方)。

牧の方/国立国会図書館蔵
『鎌倉殿の13人』の第1回放送から比較的大きく再婚が取り扱われていたのを覚えていらっしゃいますか?
まだ幼い子(北条時房)がいるのに、京都から若い新妻をウキウキしながら迎える。
時政のそんな姿がコミカルに描かれていましたが、史実では彼なりの思惑があったと推察されます。
理由は、りくの実家です。
彼女は牧宗親という貴族の親族とされます。
『吾妻鏡』では妹とされていて、『鎌倉殿の13人』でも妹設定が採用されています。しかし、娘説もあります。
象徴的なシーンは【亀の前騒動】でしょう。
北条政子が頼朝の女遊びに切れ、その浮気相手・亀の前の邸宅をぶっ壊したとき、とばっちりで髻(もとどり・髪を結った部分)を切られ、泣き叫んでいた情けない貴族。
りくの兄である牧宗親ですが、彼は面白いだけの人物でもない。
牧宗親は武者所や大舎人允(おおとねりのじょう)を歴任し、駿河国駿河郡大岡牧(おおおかのまき)預所(あずかりどころ)という職を得る貴族でした。
大岡牧というのは平頼盛(清盛の異母弟)、頼盛没後は八条院(暲子内親王・母は美福門院)の土地。
そんな場所を任されるぐらいですから、牧宗親は平家に近しい人物です。
しかも大岡牧は駿河ですから伊豆にも近く、東西のパイプ役を期待されるエリアでもあります。
大番役として上洛し、なんとか京都と人脈を作りたい時政にとって、平家人脈に近い牧の方(りく)は、最高の再婚相手だったのです。
りく(牧の方)の娘たち
京都人脈もあり、都会の美しさを持ったりく(牧の方)。
坂東武士の北条時政は彼女にメロメロに惚れていて、かつ強く影響を受けていたことが伺えます。

北条時政/wikipediaより引用
例えば北条時政の屋敷跡から、唐物(からもの・宋渡来品)の磁器が発掘されたりするのです。
いわば最新鋭の海外ブランド品であり、それを有するだけの経済力とセンスがありました。
あるいは、坂東風のろくろ成形ではなく、京都風の手で成形したの手捏(づく)ねの土器も出てきます。
京都や平泉ではよく見られる酒宴用の土器であり、坂東ではあまり見られ無い――と、日常まで京風が染み付いていました。
恋が歴史を動かした……なんて言うと大袈裟なようで冗談でもない。
りくへの寵愛ぶりは、彼女が正室とされたことからもわかります。
戦死した長男・宗時の下には二男・義時、三男・時房(時連)がいましたが、二人は庶出とされ、りくの産んだ北条政範が後継ぎとされました。
そしてりく(牧の方)と時政の間に生まれた娘のうち一人が、平賀朝雅の妻となるのです。
男子:北条政範 文治5年(1189年)生まれ
女子:平賀朝雅の室
女子:三条実宣の室
女子:宇都宮頼綱の室
女子:坊門忠清の室
女子:大岡時親の妻
しかも平賀朝雅は、新羅三郎義光こと源義光の血を引く源氏の貴種(義光の曾孫)。

源義光像(摂津国寿命寺蔵)/wikipediaより引用
時政にとってこの平賀朝雅がどれだけ大切か、ご理解いただけたでしょう。
少し遠回りしてしまいましたが、以降、本人の事績を辿っていきたいと思います。
北条時政の娘婿として
前述の通り平賀朝雅は源氏の血筋です。
しかし、その運命は母方の地縁に左右されたと言っても過言ではないでしょう。
母が比企尼の三女であり、兄・大内惟義の跡を継いで武蔵守になっているのです。
武蔵を本拠にする比企一族は頼朝の信頼を得て大きな力を有しており、同時に北条をライバル視して、何かとトラブルに関わっていたことは、ドラマをご覧になられた方はご理解いただけるでしょう。
比企は姻戚関係を駆使して武蔵の地盤を固めていましたが、これに対抗するためか、伊豆の北条氏も同エリアの御家人に娘を嫁がせました。
その嫁ぎ先が畠山重忠と稲毛重成です。

畠山重忠/国立国会図書館蔵
娘を託す御家人として、力量申し分のない相手でしょう。
しかし、北条と比企の間で、摩擦が加熱化することを恐れたのか。
両家の仲を取り持つようにして北条義時と比企一族出身の比奈(姫の前)が結ばれるだけでなく
彼女と同じように北条と結ばれたのが平賀朝雅でした。
りく(牧の方)と時政の娘を妻としたのですね。
つまり平賀朝雅は、比企・北条・源氏が絡む、非常にセンシティブな立場の人物なワケです。
そして、その引き金は建久10年(1199年)に突如引かれました。
落馬した源頼朝がそのまま死んでしまったのです。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
鎌倉殿の突然の死に対し、鎌倉の権力中枢では、若い頼家と上の世代で分裂が生じ、さらにその4年後の建仁3年(1203年)、ついに北条と比企が激突します。
このとき比奈は、義時と離縁したとされます。
では平賀朝雅はどうしたか?
建仁2年(1202年)に比企出身の母を亡くしていた朝雅は、北条の娘婿として立ち上がり、比企を討つ側に回ったのです。
結果、比企一族と、その後ろ盾を失った2代目・源頼家は追放の後に暗殺され、弟の源実朝が3代目となりました。

源実朝/Wikipediaより引用
時政はその「執権」として、実質的な権力を掌握。
その体制下で朝雅は京都守護として上洛し、後鳥羽院のもとで北面の武士となるのでした。在京中の武士を監視する役目を担ったのです。
京都には、朝雅の義理の姉妹、妻の姉妹たちも嫁いでいます。
着々と人脈が形成され、もはや盤石であろう。
おそらくそう考えていたであろう矢先、時政とりく(牧の方)にとっては予想外の悲劇が起きます。
北条政範、平賀朝雅邸で没する
悲劇とは……?
時政とりくの長男であり、北条家の嫡男でもある北条政範(ほうじょうまさのり)が亡くなったのです。
鎌倉では、源実朝の妻として坊門信清の娘・信子を迎えることになっていたのですが、その使者として京都へ出向いたのが政範。
晴れの舞台であり、京都でお披露目をする意味もあったのでしょう。
しかし元久元年(1204年)11月5日、北条政範は突如亡くなってしまいます。
享年16。
没した場所は平賀朝雅邸でした。
もしかして誰かに討たれたのか――?
当然ながらそこが気になりますが『吾妻鏡』では「病気に苦しみながら旅をしていた」とされ、病死という見解になっています。
しかし、病気がちな息子を京都に送り出すでしょうか。
仮に政範が健康体であったなら、16才で急死するような病気など、ほとんど考えられないはず。
となれば、何が怪しいか?
って、亡くなった当日、平賀邸で酒宴が行われ、平賀朝雅と畠山重保(重忠の子)が諍いを起こしていたことでしょう。
坂東武士、しかも武蔵の者同士、酒が入ってお互いに気に入らない、誹り、罵り合う――怒り心頭となって刀を抜き……というのは、誰でも想像してしまう気がします。
なんせ政範の遺骸は、仏事もろくに行われぬまま処理されてしまったばかりか、このとき亡くなった武士は政範と他にもう一人いたという記録もあるほどです。
もはや、これで病死と考える方が不自然かもしれません(ドラマでは平賀朝雅が毒を盛った設定)。
実際、政範の死に納得がいかなかったのでしょう。
時政とりく(牧の方)の怒りの矛先は、死の直前に朝雅が口論した相手である畠山重保とその父・畠山重忠に向けられます。
ただでさえ不穏な状況であった武蔵の御家人たち。
元久2年(1205年)、政範の死後、不満が鬱積していた時政とりく(牧の方)は畠山重忠・重保父子を討つよう北条義時と北条時房に命じます。

北条義時イメージ(絵・小久ヒロ)
激しく躊躇しながらも、断りきれない二人。
かくして畠山父子は命を散らします(【二俣川の合戦】)。
重忠の首を見た義時は、涙がこらえきれませんでした。
そして義時と時房、さらに姉の北条政子は、時政とりく(牧の方)と決定的に対立。
姉弟で父・時政を追い落とし、権勢を握ったのでした【牧氏事件】。
囲碁の石を数えて退出し、首となって戻る
畠山親子が亡くなり、北条時政が鎌倉を追い出され、平賀朝雅はどうなったのか?
それまでの朝雅は、京都で破格の待遇を受けていました。
元久元年(1204年)には平氏残党の【三日平氏の乱】を鎮圧、伊勢・伊賀守護職に任じられています。
殿上人にもなり、後鳥羽院の覚えもめでたく、順調な出世街道を走っていました。

後鳥羽天皇(後鳥羽上皇)/wikipediaより引用
もしも政範や重忠に何もなければ、京都志向の強い時政とりく(牧の方)にとって自慢の娘婿であり、さらなる出世を続けていたことでしょう。
しかし、この二人が失脚した今、もはや事態は激変。
北条義時、大江広元、三浦康信、安達景盛らが集い、こう決めました。
京にいる平賀朝雅を討つべし――。
時政失脚の5日後、鎌倉からの使者が京都に入りました。
何も知らぬ朝雅は仙洞御所で囲碁の会に参加。
そこで使者と応対した朝雅は、囲碁を中断して立ち上がり、戻ってくると自分の目を数えます。
「関東から、私を討つ使者が参上しました。もはや逃げられますまい。お暇(いとま)をいただきたく存じます……」
後鳥羽院にそう奏上する朝雅。
そして自邸に戻り、逃亡の末、射殺されたのです。
前述の通り元久2年(1205年)7月26日のことで、享年24と伝わります。
討たれた平賀朝雅の首は、後鳥羽院が実検したと伝わります。
実父追放の言い訳か
なぜ平賀朝雅は討たれたのか?
『吾妻鏡』では
「時政とりく(牧の方)が源実朝を廃し、朝雅を将軍に据えようとした」
という陰謀があったから、政子や義時たちが止めたとされます。
確かに朝雅は頼朝の猶子であり、京都でも順調に出世しており、ありえたようには思えます。
ただし、これはあくまで『吾妻鏡』の言い分です。
政子と義時は、実の父を追い落とすという、親孝行も何もあったものではない政変を起こしました。これを正当化するための曲筆がなかったとは思えません。

北条政子イメージ(絵・小久ヒロ)
時政とりく(牧の方)を悪どく思わせるために、被害者である畠山重忠を徹底的に美徳の持ち主として描く。
当時の逸話からして彼が「坂東武士の鑑」であったことは確かでしょうが、その美化ゆえに武蔵をめぐるパワーゲームの色が薄れていると思えなくもありません。
どう誘導しようが、平賀朝雅が哀れな犠牲者に見える。
彼を将軍として擁立するという”陰謀“には、どうしても無理を感じてしまいます。
仮にそんな陰謀があったにせよ、勝手に義理の父母にそうされて本人も知らなかったのであれば、哀れな犠牲者であることには変わりはないでしょう。
そんな朝雅にどう陰影をつけるのでしょうか?
色悪――セクシーなワルとして描かれるのか
皮肉なことに、平賀朝雅が最も輝いた時というのは“死の直前“に思えます。
自らを破滅に追いやる知らせが届いても、一旦は囲碁を打っていた場所に戻り、石を数え、落ち着いた様子で後鳥羽院に奏上する――その姿には、曰く言い難いものを感じさせます。
並の坂東武者にはない、洗練されたものを感じます。
ドラマで演じた山中崇さんのコメントには、こんな言葉がありました。
「品はいいんだけど、うさん臭い」、「おフランス帰り」。そのように三谷さんから役のイメージを言われました。「色悪(いろあく)を意識してやってください」とも。
色悪とは歌舞伎の役柄で、外見は二枚目、性根は悪人のことをいいます。
「え、僕、決して二枚目では…」と申したところ、「それを山中さんがやることがおもしろい」とおっしゃっていました。
いただいた役のイメージを表現できるよう、そして作品にとっての良いスパイスとなるよう努めます。
「おフランス帰り」というのは、かつてあったステレオタイプで、『おそ松くん』のイヤミが典型ですね。
おかっぱ頭、ちょび髭、派手なスーツ、「ざんす」という語尾。
気取ってフランスにいたことを自慢しているタイプのことをこう呼びました。
『鎌倉殿の13人』の世界観で「おフランス帰り」は、京都らしさを前面に押し出す人物でしょう。
このドラマには京都から来た人がいます。
しかし、全員が京都ことばを話すかというと、そんなことはありません。
その例外がりく(牧の方)の兄・牧宗親でした。
気取った調子で京都ことばを話し、ニヤけている姿は「おフランス帰り」のような風情があったものです。
京都人だから気取っているのではなく、そうやってあえて出してきてマウンティングをする。そんなスノッブな人を指す意味で使われたのではないでしょうか。
そして「色悪(いろあく)」。
歌舞伎のみならず日本のフィクションではおなじみ、近年の少年漫画ですと『鬼滅の刃』鬼舞辻無惨が典型です。
美形でセクシーな悪党ということですね。
少ない平賀朝雅の逸話ではありますが、囲碁の手を止めて優雅に去る場面からは、確かにセクシーな魅力があるといえばそう。
結局、ドラマでは、誇り高き甲斐源氏の出とは思えないような情けない死に方でしたね。
北条政範の暗殺犯だったことが劇中でも明確に描かれたので、相応しい最期だったのでは?
ただ、義時に対する後鳥羽院の怒りを引き出し、十分にその役どころを果たしたと言えるでしょう。
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【参考文献】
坂井孝一『考証 鎌倉殿をめぐる人びと』(→amazon)
野口実『ミネルヴァ日本評伝選 北条時政』(→amazon)
細川重男『鎌倉幕府抗争史~御家人間抗争の二十七年~』(→amazon)
他





