毛利元就が尼子軍と激突した【吉田郡山城の戦い】をご存知でしょうか?
安芸国内の一領主(国衆)に過ぎなかった毛利が、大大名の尼子に攻め込まれる。
両家の兵力を見れば
毛利軍3千
vs
尼子軍3万
であり、常識的に考えれば毛利軍が壊滅させられてもおかしくない状況でした。
しかし、現実は真逆。
敗れたのは3万の大軍を率いてきた尼子だったのです。
戦の終盤に、隣国の大内氏から毛利へ1万の援軍が到着しましたが、基本的には3千の毛利軍を用いて、元就は3万の尼子軍を蹴散らしました。
一体どんな戦い方をすれば、圧倒的な大軍を相手に勝てるのか?
まさに天賦の才としか言いようのない――毛利元就の戦術を吉田郡山城の戦いから振り返ってみましょう。

毛利元就/wikipediaより引用
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吉田郡山城とは
吉田郡山城は建武三年(1336年)、毛利時親(ときちか)によって築いたとされます。
時親の代まで、毛利氏は越後と安芸の地頭職を担っておりましたが、南北朝の動乱の中で「安芸に移ったほうがいい」と判断。
吉田郡山城を築くに至りました。
また「時親が楠木正成に軍略を教えた」という伝承もあり、頭脳明晰な人という評価が定着していたようです。

楠木正成/wikipediaより引用
時親の子孫である毛利元就が稀代の名将であり、この吉田郡山城で勝利を収めていることを考えるとアツいですね。
本格的に改修したのは元就の晩年らしく、山全体に曲輪を広げたとなると、おそらく数十年かけて徐々に手を入れたものと思われます。
その結果
山頂に本丸
南に二の丸・三の丸、
北に姫丸などの曲輪 (くるわ)
などが点在する山城になりました。

毛利の本拠地として知られる吉田郡山城(日本100名城の一つに数えられる)
安芸高田市のホームページにある俯瞰図(→link)から、その規模の大きさが感じられますね。
なお、奈良にある大和郡山城をはじめ全国に「郡山城」が点在しているため、毛利氏については吉田郡山城と呼ばれています。
先に言ってしまうと、吉田郡山城は元亀二年(1571年)6月14日に元就が亡くなった城でもあります。
一族にとって切っても切れない縁の深い城といえるでしょう。
では、そんな吉田郡山城でどんな戦いが起きたのか?
戦の背景
吉田郡山城の戦い以前、毛利氏は尼子氏の傘下にいました。
しかし大永三年(1523年)、尼子経久の命で大内方の鏡山城を攻略してから「元就を放置しておくと禍根になるかも」と警戒されるようになります。

尼子経久/wikipediaより引用
命令に従って功績を上げたのに、かえって疑われるなんてひどい話ですが、室町時代以降はよくあることです。
それならそれで飼い慣らす方法を画策すればよいのに、経久はこう考えます。
「やつを取り除き、異母弟の相合元綱を据えよう」
そのため毛利の重臣たちをそそのかそうとするのですが、状況を察知した元就が元綱を討って事態を回避。
尼子氏からの離脱を決断します。
しかし毛利では、重臣の家から尼子氏へ人質が出されていたため、すぐに手を切るわけにはいきません。
当時の毛利氏はまだ弱小勢力の国衆ですから、現実問題、尼子氏との縁を切るならば、今度は西の重鎮・大内氏に庇護してもらわねればなりません。
でも大内氏の城を攻めたばかりで実際どうすればよいのか?
しおらしく「お味方したい」と申し出たところで、信用されないリスクも大きい。
仕方なく、しばらく尼子に臣従していた元就は、ついに享禄元年(1528年)、決意を固め、大内義興へ人質を送りました。

大内義興/wikipediaより引用
その直後、義興は亡くなり、大内義隆に代替わりを果たすのでした。
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