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【吉田郡山城の戦い】
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石見銀山を巡り吉田郡山城へ
国衆ながら戦上手である勇将・毛利元就が大内氏へなびくのは、尼子氏にとっては由々しき事態。
山陽方面の足がかりを一つ失うことでもあり、黙って見過ごせるものではありません。
そこで尼子氏は、毛利に対して兵を挙げる……のではなく、享禄三年(1530年)に大内氏との間で和睦を成立させると、享禄四年(1531年)7月には元就が尼子詮久(のちの尼子晴久)と義兄弟の契りを結ぶことになりました。
尼子側では、天文六年(1537年)に経久が隠居して詮久が家督を継ぐため、両軍の緊張感が解かれた状態になったわけです。
そこで元就はどうしたか?
というと長男・少輔太郎(後の毛利隆元)を人質として山口に差し出し、大内氏の傘下に入ることをあらためて明確に表明しました。
一方の尼子氏は?
播磨方面での戦が続いていたばかりか、天文八年(1539年)、大内氏に石見銀山を奪われたことで、毛利一族への対処は遅れます。

石見銀山
晴久が動いたのは、やはり石見銀山を大内氏に奪われたことでした。
当時の銀は通貨として輸出用として、積極的に使われていた価値の高い鉱物でしたので、奪われたままではいられません。
そうなると、道中にある吉田郡山城を落としたほうが利便性が高くなります。
やはり戦は避けられなかったのです。
尼子軍 ついに挙兵
当初、尼子晴久は、天文八年(1539年)11月に毛利討伐を計画していたと考えられています。
このときは経久の弟(晴久の大叔父)である尼子久幸が以下のように進言。
「備後と石見がまだ不安定なので、両国の国人から人質を取って後背の憂いを断ってからにすべきです!」
すると晴久は「臆病野州」と罵って、聞きたがらなかったとされます。
野州=下野のことで、大叔父の久幸が下野守だったことからきている悪口ですね。
そこで隠居の身だった尼子経久が、慎重に動くよう諌めるも、やはり晴久は反抗したとか。

尼子晴久(詮久)/wikipediaより引用
誰かが「有田・中井出の戦い」で怒りに震えた武田元繁が毛利元就に討たれたことでも言って聞かせれば、また展開も違ったのかもしれませんが……いや、知らないはずがないですね。
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戦国一の戦上手は毛利元就か「西の桶狭間」と呼ばれる有田中井手の戦いで大軍を撃破
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石見銀山を一刻も早く奪い返そうと考えたのでしょう。
戦の時期を巡り、紛糾する尼子内。
いよいよ挙兵をしたのは天文九年(1540年)6月下旬のことでした。
尼子軍は備後路(=吉田郡山城の北東側)から安芸吉田への侵入を図り、道中の五龍城へ攻めかかります。
五龍城の城将は元就の娘婿の祖父・宍戸元源(もとよし)。
これが見事な奮闘ぶりで、尼子軍を撤退させます。
前述の通り尼子晴久は人の話を聞かないタイプですが、その晴久をいったん諦めさせたのは地味にすごい話かもしれませんね。
むろん晴久もそのまま諦めたわけではありません。
一ヶ月ほど後、今度は石見路(=吉田郡山城の北西側)から進み、風越山に尼子本陣を構えました。
以下の地図の通り、風越山は吉田郡山城から現在の道で6km程度しか離れておらず、標高も吉田郡山城より高い555mです。
城については山林の中なので視線が通らなかったと思われますが、城下や周辺の地形はよく見えたことでしょう。
これに対して元就は、一族郎党を引き連れて吉田郡山城に籠もり、近隣住民も城へ避難させました。
籠城戦としては結構な博打です。
長引けば食糧不足で自滅しやすくなりますし、大所帯になればなるほど統率が取れず、厭戦気分も漂いやすくなります。
それでも領民を受け入れるということは、地元での信用と団結を買おうとしたのでしょう。
また、城外では毛利方の
五龍城:宍戸元源
鈴尾城(安芸高田市):福原広俊
がそれぞれ籠城していました。
大内氏からも杉隆相が坂城(安芸高田市)に控えています。
徹底抗戦ですね。
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