慈円

慈円/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

摂関家出身の高僧・慈円が「武者の世」を嘆きながら後鳥羽院に重宝された理由

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聖俗で結託して政治を動かす

一方、兄の九条兼実は、異母姉・聖子の猶子となり、藤原家の一員として歩んでいました。

兄弟は父・忠通晩年の子であり、兼実と慈円は若くして互いに協力して生きていきます。

聖俗両者が結託して政治を動かすことは、当時の常套手段。

特に比叡山では権力争いも激化しており、武力行使もしばしば起きる。

要は、俗世での権力がそのまま適用されるのであり、摂関家出身の慈円は優遇され、エリート僧侶として歩むこととなります。

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それは兄・兼実にとっても心強いことでした。

仁安2年(1167年)に慈円は、天台座主・明雲により受戒。

若干16で一身阿闍梨の称号を得て、法眼の位を得ました。

時代は源平合戦に向かう頃のことです。

戦乱で修行が妨げられることもしばしばありながら、ようやく修行を終えて山を降りると、慈円は兄・兼実に「遁世し生きる」と伝えました。

現世の権力とは、極力関わらないと伝えたのです。

しかし、そんな悠長な生活など、兄の兼実が許しません。

慈円は政治と縁が切れない人生を続けることになります。

治承2年(1178年)に法性寺座主に就任すると、養和2年(1182年)には、覚快法親王の死没を受けて青蓮院を継承。

建久3年(1192年)には天台座主に就任します。

僧侶としては最高の歩みですが、兄・兼実の意向が強く反映されたものです。

そして平家が滅亡すると、兼実が源頼朝と接近します。

兼実にとって、弟・慈円が天皇の御持僧(祈祷を行う僧侶)であることは非常に重要でした。

鎌倉から上洛した坂東武者の代表・頼朝たちは、朝廷で慈円の優雅な姿を見て、感心していたことでしょう。

『鎌倉殿の13人』では、その破綻した性格ゆえに目立っていた僧侶に文覚がおります。

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得体の知れない怪しげな文覚と比べると、はるかに常識的で血筋も良い、高僧の代表格・慈円。

京都に真っ当な高僧がいることは、否が応でも頼朝に、朝廷の存在を意識させたことでしょう。

 


天才歌人・慈円

慈円は、摂関家出身の血統だけが頼りだったワケでもありません。

兄の兼実は日記『玉葉』を残したことでも有名。

慈円も、鎌倉時代を代表する史書『愚管抄』を残すなど、兄弟には類まれな文才がありました。

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和歌もまた素晴らしく、聡明で美意識の高い後鳥羽院は、慈円の才能を熱愛しています。

慈円は和歌を素早く詠む。

しかも職業的に常によい和歌を詠まねばならない重圧があった藤原俊成や藤原定家とは異なり、思うがままに描くことができる。

いわば天才肌だったのです。

斬新で平明、かつ技巧に頼らず、心が素直に伝わってくる――そんな慈円の歌を後鳥羽院は愛し、そばに置きました。

が、同時にこの愛は慈円を縛るものでもありました。

摂関家出身からの政治力。

後鳥羽院に寵愛される文化芸術の才。

こうなっては、いかに本人が仏道に励みたいと思っても周囲が許してくれず、政治に関わるしかありません。

慈円が、当時の「新仏教への理解は高くない」と評されるのもそうした影響からでしょう。

僧侶でありながら、世を救うために行を極める時間がとれない宿命でした。

そんな慈円ならではの事態に遭遇したのは、建久7年(1196年)のことです。

兄・兼実がライバルである土御門通親との政治闘争に敗れて、後ろ盾を失い、座主を辞任することなりました。

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そしてその3年後の建久10年(1199年)には源頼朝が不可解な急死。

鎌倉の動乱は京都にも影響が及んできます。

梶原景時の討伐に続き、比企能員が北条に討たれ、そして頼朝の嫡男で二代目鎌倉殿でもあった源頼家が暗殺されます。

あまりにおぞましい流血の連続を、慈円は後に『愚管抄』に書き留めました。

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