大河ドラマ『豊臣兄弟』の第8回放送で注目された墨俣一夜城。
「秀吉が一夜で組み立てた!」というエピソード通りに描かれるのではなく、墨俣一夜城はあくまで“囮”として使われ、真のターゲットは別にありました。
北方城(きたがたじょう)です。
竹中半兵衛に事前に察知され、秀長たちの作戦は失敗に終わりましたが、なぜ彼らは北方城を目標としたのか、それは史実においてどんな城だったのか?

実は、後に安藤守就が悲劇に見舞われことにもなる「北方合戦」と併せて振り返ってみましょう。
稲葉山城のすぐ隣にある北方城
美濃の斎藤家にとって北方城は非常に重要な拠点でした。
なぜなら美濃三人衆の一人・安藤守就の居城であり、斎藤龍興のいる稲葉山城のすぐ西、現在の道路で約10kmほどの位置に建っているのです。
距離感を把握するため、現代の地図で正確な距離を確認しておきましょう。
いかがでしょう?
小牧山城を出て、墨俣城をすっ飛ばして一気に北方城まで踏み込むのは、相当な無茶だと思いません?
稲葉山城から南は、尾張まで平地が続き、山頂の斎藤軍から織田軍の行動は丸見えです。
織田軍がいくら攻め込んでも、斎藤軍は常に万全の迎撃体制で迎えることができ、ほとんどが斎藤軍の勝利に終わっていました。
そこで、ドラマの中の織田軍も墨俣一夜城を囮にして、奥の北方城を狙うわけですが、今度は竹中半兵衛に作戦を読まれて返り討ちに遭ってしまいます。
では史実における北方城とはどんな城だったのか?
大きさや築城年なども見て参りましょう。
築城主は安藤守就の曾祖父
北方城の広さは東西160メートル、南北340メートルほど。
当時はいくつかの屋敷を含みながら、周囲は掘で囲まれていました。
城の中は、いくつかの水路も張り巡らされていたとされます。
ドラマでは屋敷の入口部分しか描かれていませんでしたので、北方城の規模感などは伝わってきませんでしたね。
北方城の正確な築城年月は不明です。
応仁期(1467年から1469年)だったとされ、築城主は伊賀太郎左衛門光就。
その曾孫にあたるのが安藤守就です。
つまり、約100年間、安藤氏の居城として稲葉山城を守ってきたんですね。

後に岐阜城として知られる斎藤氏の稲葉山城は難攻不落の名城だった/wikimedia commons
逆に言えば、この安藤氏(北方城)を調略してしまえば、稲葉山城は裸にされたも同然となってしまう。
実際、永禄十年(1567年)に美濃三人衆(安藤守就・稲葉一鉄・氏家卜全)の三名が織田方に降ると、程なくして稲葉山城も陥落し、最終的に美濃全土は織田信長のものとなりました。
戦に敗れて美濃を追い出された斎藤龍興は、伊勢長島へ逃げ込んだとされます。
後に、織田信長と激しい殺戮合戦を繰り広げる、長島一向一揆の勢力圏でした。
「守就の嫡男が武田と内通した」
織田家に降った安藤守就は、その直後の合戦から武功を挙げていきます。
永禄十一年(1568年)に足利義昭を奉じての上洛戦に参戦すると、元亀元年(1570年)姉川の戦いでも貢献。
しかし元亀二年(1571年)長島一向一揆討伐では、織田家そのものが敗北に追い込まれます。中洲に散った一揆軍を掴みきれず、撤退することにしたのです。
その時でした。
いざ退却という段階で一揆軍からの激しい逆襲に遭い、美濃三人衆の一人・氏家卜全が討死してしまったのです。
信長に仕えてわずか4年。
なんだか運が悪い方でした……。
と、人のことを案じていられないのが織田信長のもとで働くということなのでしょう。
織田家では、突然、役職を解かれて追放される重臣が一人や二人ではきかず、天正八年(1580年)、ついにその矛先が安藤守就に向かうのです。
「河渡城主の安藤尚就(守就の嫡男)が武田と内通しておる」
息子の尚就がそんな嫌疑をかけられると、安藤守就も北方城を出て、武儀郡谷口村(現在の関市)に押し込まれてしまうのでした。
旧領は稲葉一鉄に預けられ、このままでは失意の底で死んでいくしかありません。

美濃三人衆の一人・稲葉一鉄(稲葉良通)/wikimedia commons
北方合戦で一族全員が討死
そもそも安藤守就一派たちは、本当に武田への内応などを考えていたのか?
武田信玄が生きていた頃ならまだしも、天正八年(1580年)といえば長篠の戦いから5年が経過しており、以前ほどの脅威はありません。
織田信長がどんな情報を掴んでいたのか不明ですが、仮に証拠があれば即座に殺されても不思議ではないのでは?
結局のところ、リストラなのでしょう。
同時期には、林秀貞や佐久間信盛など、方面軍の責任者になっていない古参の重臣たちが追い出されていて、安藤守就も同類の可能性を感じさせます。
ただし、信長は息子たちに復活のチャンスを与えたりしているので、北方城を諦めるにはまだ早い。
まだまだ取り返せるぞ!と、考えていたところ、あまりにも予期していないチャンスが巡ってきました。
天正十年(1582年)6月2日、本能寺の変です。
織田信長が本能寺で明智光秀に討たれた、絶好のチャンス到来!
守就は一族や旧臣の者たちを集めて北方城に入り、立ち上がろうとします。
しかし、これを邪魔したのが同じ美濃三人衆の稲葉一鉄と、その息子・稲葉貞道です。
安藤軍と彼ら稲葉軍の間で「北方合戦」と呼ばれる戦が天正十年(1582年)6月7日に始まり、翌日までに「守就を含む安藤軍の全員が戦死」という、哀しい終わりを迎えたのです。
安藤守就はこのとき84歳。

北方城趾/wikimedia commons
安藤軍の遺体は、稲葉軍の村瀬太郎左衛門たちが受け取り、仏門に入った守就の弟・湖叔に渡されると、その日のうちに龍峰寺で手厚く葬られました。
なぜドラマで北方城が狙われたのか
なぜ墨俣一夜城が囮とされ、北方城が狙われたのか。
ドラマの中でも説明されていたように、まず第一に稲葉山城から近い!という距離適性でしょう。
劇中では測りようもないですが、両城間の距離はわずか10km弱。
通常の徒歩でも90分~120分で届く範囲であり、まさに稲葉山城を守るためにあった支城と言えます。
そして第二に、美濃三人衆の安藤守就が守っていたということでしょう。
美濃三人衆の一人ということだけでなく、天才・竹中半兵衛の舅ともされ、稲葉山城乗っ取り事件でも共に働いていただけに、守就とセットで使いやすい。
第三に「北方合戦」という悲劇が待っていることです。
稲葉一鉄と安藤守就という元三人衆の二人が、敵同士となって本能寺の変後に戦うとなれば再登場させやすい。
ということで北方城が注目されたのでしょう。
▶ 安藤守就の詳細につきましては別記事「安藤守就の生涯」をご覧ください。
参考書籍
北方城/北方町公式サイト
太田牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
岡田正人『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣)

