大河ドラマ『豊臣兄弟』で、竹田城を守る但馬の武将として登場した太田垣輝延(おおたがきてるのぶ)。
中野英雄さんが演じ、仲野太賀さんと並んで親子での出演が話題となりましたが、その前に「この武将は誰なの?」と思われた方も多いでしょう。
Googleのテレビ広告で一躍全国区の名前になった竹田城に対し、その城主や関連武将のことまではあまり語られるものでもありません。
いったい太田垣輝延とは何者なのか?
ドラマでは、パワハラ気質の悪役武士として描かれていましたが、果たしてそういう逸話は残っているのか?

羽柴秀吉と秀長の中国攻めを理解するうえで見逃せない、太田垣輝延について振り返ってみましょう。
但馬の国衆・太田垣氏
太田垣輝延は、但馬国の有力国衆・太田垣氏の人物です。
但馬国は現在の兵庫県北部にあり、豊岡・出石・朝来・養父などを含む山がちな地域。
この但馬で長く影響力を保持していたのが山名氏でした。
室町時代に「六分一殿」と呼ばれるほど多くの国の守護を務めた名門武家であり、応仁の乱では山名宗全が西軍の中心に立った一族です。
但馬はその重要な本拠地でした。

山名宗全(山名持豊)/wikipediaより引用
ただし戦国時代ともなると、山名氏の支配は弱体化していきます。
変わって勢力を築き上げていったのが国衆であり、彼らはそれぞれのエリアで城を持ち土地を所領とし、但馬を支配していくようになります。
太田垣氏もその一勢力でした。
但馬南部の朝来郡に拠点を置き、竹田城と深く結びついた一族。
彼らの竹田城は、秀吉が播磨攻略で拠点とした姫路城から北へ約70kmのところにありました。
「山名四天王」とは何だったのか
太田垣氏は、八木氏・垣屋氏・田結庄氏らとともに「山名四天王」と呼ばれることがあります。
名前だけ聞くと精鋭部隊のようですが、実際のところ山名氏直属の武力集団でもありません。
但馬各地に根を張り、地元では力を有した国衆と見るのが自然。
太田垣氏は竹田城、八木氏は八木城、垣屋氏は楽々前城など、それぞれに城と所領があり、山名氏の但馬支配を支えながらも、自分たちの家と領地を守る存在でもありました。
・主君がいる
・しかし主君の命令だけで動くわけでもない
・中央の情勢が変われば、どちらにつくかを見極める
あくまで地元に根ざした国衆だったのですね。
そんなエリアに天正五年(1577年)、突如として嵐が襲いかかります。
織田信長による中国攻略が本格化したのです。
なぜ羽柴方は但馬へ向かったのか
中国攻略の最前線を任されたのが羽柴秀吉でした。
一般的に中国攻略というと「毛利勢とどう戦った?」という点ばかりが注目されがちですが、羽柴軍は播磨方面から毛利勢と対峙する一方で、その北側にあたる但馬方面にも兵を向けました。
そこで重要な役割を担ったのが、秀吉の弟・羽柴秀長です。
確かに、播磨のすぐ西には毛利がいて、そちらに注意が向きがちですが、北部の但馬エリアも無視できません。
なんせ姫路城と竹田城の間には生野銀山もあります。
竹田城
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生野銀山
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姫路城
この、縦に走るラインを押さえれば、資金力強化のメリットも大きく、逆に生野銀山を奪わなければ但馬へ進むメリットもかなり減ってしまいそうなぐらい。
そんな美味しい拠点を羽柴秀吉が見過ごすわけもなく、弟の秀長を送り出しました。
史実の秀長も、このときまでにかなりの信頼感を秀吉から得ていたでしょう。
竹田城はなぜ重要だったのか
それにしても「天空の城」として人気の竹田城は、太田垣氏といったいどんな関わりがあるのか。
竹田城が築かれたのは室町時代の永享~嘉吉年間(1429-1444)、築城主は山名宗全(山名持豊)と太田垣氏と推測されています。
山上に広がる石垣は壮観であり、竹田城の大きな特徴にもなっていますよね。
しかしこれ、太田垣輝延の時代には無かったと考えられています。
斎村政広(赤松広秀)など後年の城主によって整備されたものと指摘されており、おそらく秀長が攻め込んだときと姿は異なっていたでしょう。

むろん竹田城が但馬南部の重要拠点だったことに変わりはありません。
標高353メートルの山頂に立ち、周囲の谷筋や街道を見下ろす竹田城は、山陰山陽方面へ抜けるルートの中間地点にあります。
羽柴方にとっては絶対に避けては通れない地点でした。
では、太田垣輝延はどんな人物だったのか?最後に見てみましょう。
太田垣輝延は「但馬の古い秩序の担い手」だった
太田垣輝延の事績を詳しく伝える史料は、かなり限られています。
彼のキャラクターや内面はもちろん、具体的な事績を詳しく追うこともできません。
しかし、それでも間違いないと思えることはあります。
太田垣輝延は、山名氏を中心とした室町以来の但馬国衆の一人であり、そこへ織田・羽柴方の軍勢が入り込み、従来の地域秩序を揺さぶっていきました。
結果、竹田城は羽柴方の支配下に入り、秀長も但馬支配に深く関わっていくことになります。
太田垣輝延の足跡は不明。
竹田城が羽柴方の手に渡ると、但馬南部の情勢は大きく変化し、やがて斎村政広(赤松広秀)の時代へとつながっていきます。
そこから先の話は、以下の別記事をご覧ください。
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竹田城最後の城主・斎村政広の生涯|なぜ家康に切腹させられたのか?
続きを見る
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大河ドラマでは秀長の前に立ちはだかる“敵役”として登場した太田垣輝延。
長く但馬に根を張っていた国衆が、秀吉・秀長時代の波に飲み込まれていく――その現場にいた但馬国衆の一人が太田垣輝延でした。
参考文献
- 戦国合戦史研究会編『戦国合戦大事典 六 京都府・兵庫県・岡山県』(新人物往来社)
- 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』(吉川弘文館)
- 阿部猛・西村圭子編『戦国人名事典 コンパクト版』(新人物往来社)
- 藤井讓治編『織豊期主要人物居所集成 増補第3版』(思文閣出版)

