日本は地震大国です。
おそらく有史以前からずっと揺れ続けており、当然ながら戦国時代も幕末も大地震が頻発。
当時の政局にも影響したのではないか?という程です。
天正十三年(1585年)11月29日に発生した【天正地震】もそうした大地震の一つでしょう。
今回はこの地震が与えた影響と、不幸にも一晩で山中に呑まれてしまい、帰雲城(かえりくもじょう・きうんじょう)と共に消え去ってしまった内ヶ島氏理(うちがしまうじまさ)たちの悲劇を振り返ってみたいと思います。
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秀吉の天下統一すこし前
天正十三年(1585年)と言えば、豊臣秀吉が紀州征伐をやったり関白になったりした年でもあります。
九州征伐の前ですから、まだ日本全国の天下統一には少し時間があるときですね。
地震前後から天下統一までを秀吉の年表でざっと確認してみると、
1583年6月 北ノ庄城の戦い(47才)
1583年 大坂城築城開始
1584年 小牧・長久手の戦い
1585年3月 紀州征伐
1585年7月 関白就任
1585年7月 四国平定
1585年9月「豊臣」姓を賜る
1585年11月 天正地震
1586年12月 太政大臣就任
1587年5月 九州平定
1587年7月 バテレン追放令を出す
1588年7月 刀狩令
1590年3月 小田原征伐(54才)
1590年8月 奥州仕置→天下統一
慌ただしく時代が動いていながら、地震が起きた1585年11月以降、1年半以上、大きな合戦がありません。
さほどに天正地震の規模は大きいものだとも考えられますよね。
現代日本でも東日本大震災が起きた直後は、人々の意識や生活スタイルがかなり変わっていました。
推定マグニチュード7.8
天正地震の規模は、推定マグニチュード7.8。
畿内エリアから東海、北陸にわたって震度5-7レベルで広がっているのが各機関の研究レポートから見てとれます。
実際、美濃付近を中心として本州をぶったぎるような範囲で被害が出ており、津波の記録があるだけでも若狭湾、伊勢湾、三河湾と続き、はるか遠い三陸でも影響を受けたとか。
明治24年(1891年)10月28に発生した濃尾地震はM8.0と推定され、内陸地震では国内最大級の規模とされておりますが、天正地震も震度分布パターンなどは非常に似ているという観測もあります。
他にも天正地震の後に、焼岳(長野県)が噴火したとか、12日間も余震が続いたとか、これを皮切りに日本列島で大地震が頻発したとかいろいろいわれています。
加藤清正の逸話「地震加藤」で有名な【慶長伏見地震】も、この後、文禄5年(1,596年)に起きています。
しかし、天正大地震で一番有名なのはおそらく帰雲城(飛騨国)の話でしょう。
やたらとカッコイイ名前ですが、なんとこの地震で
「城下町ごと流されて埋没してしまった」
とも言われる、恐怖の城なのです。
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