世の中は複雑なことばかりですが、超訳すると小学生の屁理屈にしか聞こえないようなことも多々存在します。
特に歴史、さらに近世以前の場合はそんな話ばかりといっても過言ではなく……。
1314年11月29日は、フランス王フィリップ4世が亡くなった日です。
ヨーロッパの王様には厨二的な二つ名がつきものですが、この人は「端麗王」「寡黙な王」「敬虔な王」などなど盛りだくさん。
どれも相反するものではないので「口数が少なく信心深いイケメン」と考えればおかしくはないのですが、実際の行動履歴からするとどうにもそうとは言い難い感じがします。
さっそく見ていきましょう。
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王にならない立場がトントン拍子に勢力拡大
フィリップ4世は、もともとは王になるはずのない立場でした。
しかし、幼いころに長兄が亡くなって王太子になり……って、日本史でも世界史でもド定番の流れですね。
王太子になったからには、若いうちに結婚して世継ぎを得るのも仕事のうち。
1284年8月にナバラ王国の女王・フアナ1世と結婚し、同国の領地である
・シャンパーニュ(現在のフランス北東部・シャンパンの産地になってるところ)
・ナバラ(現在のスペイン北東部)
も勢力下に収めました。
さらに、結婚の翌年には父のフィリップ3世が亡くなって王位を継いでいます。
このトントン拍子ぶりが、後の彼の行動や考え方に大きな悪影響を及ぼしたような気がしないでもありません。
26歳のときから、ガスコーニュ(現・フランス南西部)やフランドル(現ベルギー)を支配下に置くべく、イングランドと戦争をおっぱじめました。
当時のフランス王はパリ周辺のわずかな地域しか直轄できておらず、他の地域は「◯◯公国」として別の主が持つ小さな国になっていました。
一応、◯◯公たちはフランス王に臣下の礼を取っていたものの、何かあればすぐ背くような状態。
フィリップ4世が王権の強大化を狙うのも無理な話ではありません。
ときのイングランド王・エドワード1世が大陸よりスコットランドに関心を強め、休戦した時期もあったのですが、結局、戦争を再開されてしまいました。
結果、フィリップ4世が亡くなるまでの約20年間に渡って小競り合いを繰り返しています。
いつもながら、現地の人が哀れで仕方ありません。
これだけ長期間戦争をするとなると、増税せずに国が保てるはずもなく、フィリップ4世は一般人はもちろん、カトリック教会にまで税を課しました。
当時のカトリック教会といえば「神の代理人である教会と教皇はこの世で一番エライ!!」(超訳)という、それこそキリストに殴られそうな考えの団体です。
フィリップ4世の態度を不遜ととらえたときの教皇・ボニファティウス8世は、全ての聖職者にローマへ来るよう命じたり、
「この世で一番偉いのは教皇であるこの私!!」(超訳)
と宣言したり、ありとあらゆる方法で権力を誇示しました。
まあ、フランス王はカトリックの聖職者であるランス大司教に地位を認めてもらって王様になりますので、ローマ教皇>>ランス大司教>>フランス王という構図も、無茶苦茶ではないんですけれども。
教皇相手に「ああ言えばこう言う」で口喧嘩して
ここからはしばらく、フィリップ4世とボニファティウス8世の間で、実に大人げない舌戦による政争が繰り広げられます。
フィリップ4世は三部会(聖職者・貴族・市民の会議/フランス革命の時にもキーワードになる)を招集してフランス人の統一意識を作ります。
これに対し、ボニファティウス8世は、フィリップ4世を破門。
やり返すような形で、フィリップ4世が教皇弾劾を呼びかけるなど、「ああ言えばこう言う」状態がしばらく続きました。
いい年した大人、方や一国家の君主、方や三大宗教のトップという二人でやってたのかと思うと嘆かわしい話ですよね。
それから数年、舌戦による小競り合いが続いた末、実力行使に出たのはフィリップ4世の方でした。
異端審問(魔女狩りみたいなもの)で両親を失ったギヨームという男に命じて教皇を襲わせたのです。
教皇はイタリア山間部のアナーニという町に逃げこみましたが、ギヨームは見事追いついて教皇を捕らえました。
ボニファティウス8世にとってアナーニは地元だったので、他の住民たちが協力して教皇を助けだしたものの、この恥辱と怒りは相当な負担になったようです。
そしてそれから1ヶ月もしないうちに世を去ってしまいました。
68歳という高齢だったこともさることながら、仮に憤死だとしたら、凄まじいというか本当にあるんだというか……。
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