金森長近

金森長近/wikipediaより引用

織田家

信長親衛隊・赤母衣衆から大名へ出世した金森長近~意外と波乱な生涯85年に注目

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観光地・飛騨高山は長近が作った!?

話を長近に戻しましょう。

飛騨を任された長近は、当初、鍋山城(高山市)に腰を落ち着けました。

その後、天正十八年(1590年)から、天神山に高山城の造営を開始。完成したのは、この後しばらく経った慶長十年(1605年)頃のことです。

これが今日でも観光地として名高い、飛騨高山であります。

文禄三年(1594年)頃には、秀吉・御伽衆の一人になっていたようです。

金森長近は、禅宗と茶道に造詣が深いだけでなく、織田軍創世記からの生き残りのため、格好の話し相手となったのでしょう。

実際、秀吉と親しくしていたらしき話も伝わっています。

晩年の秀吉が、有馬温泉に行ったとき、長近が秀吉を背負って湯につかった……というのです。

あまり語られることのない話ですが、秀吉の晩年というと、おそらく1590年代。

長近は1524年生まれですから、少なくとも60代後半になっていたはず。

秀吉が小柄だったことを差し引いたとしても、長近が頑健な肉体を持っていたであろうことがうかがえます。

身長が高ければ、前田利家のように特記されていたでしょうから、特別大柄というわけではなかったのでしょうね。

 


関ヶ原では親子で東軍につく

秀吉死後、【関ヶ原の戦い】では養子の金森可重(よししげ or ありしげ)とともに東軍につきました。

義父子で敵味方に分かれることを選んでいないあたり、家康が勝つと確信していたのでしょうか。

この辺、戦国時代を生き抜いてきたしたたかな勘が働いていそうです。

ただ、大きな野心まではなかったようで、戦後家康が領地を与えようとしたとき、一度断っております。

徳川家康のゴリ押しで、結局は美濃・上有知1万8000石、河内・金田3000石を受け取ることになるのですが。

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慶長十年(1605年)には高山城を可重に譲り、自身は小倉山城(岐阜県美濃市)を築いて隠居生活を始めました。

そしてその三年後、慶長十三年(1608年)に京都で亡くなっております。

享年85。かなりの長寿ですね。

高山城と小倉山城は、その後全く違う経緯をたどりました。

まず高山城と高山藩は、養子・可重とその子孫たちが受け継いでおります。

しかし、元禄五年(1692年)に突如、六代藩主・金森頼時が出羽国上山藩への移封を命じられ、やむなく引っ越し。

その後、この地は天領として幕府に接収され、そのまま幕末を迎えるため、この地の金銀山や木材などが目をつけられたのでは……とも推測されます。

出羽へ移った金森頼時は、その後、さらに美濃郡上藩に移され、跡を継いだ頼時の孫・金森頼錦(よりかね)の代に増税政策の失敗で百姓一揆が勃発。

重ねて、領内の聖職者たちの利権が絡んだ石徹白騒動(いとしろそうどう)が起き、関係者の厳寒地への追放、それに続く餓死者の続出という大惨事になりました。

生き残った人々が江戸へ決死の訴えを何度も行った結果、やっと幕府の裁きが入り、頼錦は責任を問われて改易となります。

 


「うだつの上がる町並み」

小倉山城のほうは、長近の晩年に生まれた実子の金森長光に美濃・上有知と河内・金田(関ヶ原の褒美として与えられていた領地)と共に相続されました。

しかし、長光が慶長十六年(1611年)に幼くして亡くなったため、上有知は没収。

金田だけは存命中だった長近の妻・久昌院の知行として残されました。

いわば化粧料(一定以上の地位を持つ女性の生活費としてあてがわれる権利や領地)ですが、これは久昌院が家康の叔母だったからだとされています。

小倉山城は廃城となり、その後の上有知は尾張藩の一部として管理され、城下町は残りました。

現代では「うだつの上がる町並み」として、重要伝統的建造物群保存地区になっています。

この「うだつ」は、慣用句の「うだつが上がらない」(見栄えがしない)の「うだつ」です。

うだつとは、火災が起きたときに延焼を防ぐため、隣家との間に設ける防火壁のこと。時代が下るに従って、装飾的な意味合いが強まっていきました。

家を飾るにはそれなりの財力が必要ですから、「うだつが上がらない」=「見栄えがしない」という意味になったんですね。

長近の血筋は歴史には残らなかったものの、彼が造った町は残ったのですから、誇らしいことでしょう。


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長月 七紀・記

【参考】
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
国史大辞典
金森長近/wikipedia

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