月岡芳年による『松永久秀』像/wikipediaより引用

信長公記 三好家

信貴山城の戦いで迎えた久秀の最期! 大仏殿を焼いた因果? 信長公記151話

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信貴山城の戦い
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開戦! 信貴山城の戦い

むろん、謙信のいる北陸方面についても、依然として予断を許さない状況です。

そのため久秀討伐について信長は出馬せず、総大将を織田信忠としたまま攻略に取り掛からせました。

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勝家も松永討伐には駆り出されますが、北陸方面の備えとして御幸塚(小松市)と大聖寺(加賀市)に砦を築き、鬼玄蕃として知られる佐久間盛政らに後を任せています。

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謙信を気にしながらの松永討伐ですね。

10月1日、信忠が駐留していた安土から出陣。

翌日、真木島(槙島)に陣宿し、3日には信貴山城付近に到着しました。

そして周囲を焼き払って陣を据え、おそらく1日程度は後続の兵を待っていたと思われます。

3日には柴田勝家らが北陸から帰陣したと書かれていますが、このころ勝家と共に七尾城救援軍に加わっていた丹羽長秀が信貴山城攻めに加わっているのです。

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また、勝家との諍いから北陸の戦場から離脱していた羽柴秀吉も、長秀と前後して信貴山城攻めに参じておりました。

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松永軍の使者が織田方へ駆け込んできた

戦闘は5日から始まりました。

後がない城方の抵抗は激しいものでした。

兵数では織田軍が圧倒的に有利なものの、緒戦で数百人の死傷者が出たようです。

久秀もいつまでも粘れないということは理解しており、本願寺や毛利氏など、織田氏と敵対する勢力に助力を求めようとしました。

しかし、そのための使者に立てた森好久(よしひさ)という人物が松永を裏切り、筒井順慶の陣に駆け込んで城の内情を密告します。

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順慶は好久に金子と200の鉄砲衆を貸し与え、タイミングを図って城に火を放つよう命じました。

城の内側から裏切らせようとしたのですね。

好久としては200の兵を援軍として借り受けたと偽りながら、信貴山城内へ戻れたようです。

そして迎えた10月10日の夜。

信忠は佐久間信盛・羽柴秀吉・明智光秀・丹羽長秀に命じ、信貴山城を方方から攻めるよう命じました。
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