信長公記 三好家

信長に献上された名刀「不動国行」と「薬研藤四郎」~信長公記105話

今回も天正二年(1574年)正月の話。

話題としては二年前の出来事が関係してきます。

※前回の正月話は以下にございます

信長のお正月「浅井と朝倉の首」で酒を飲んだってマジ?信長公記104話

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松永父子が降伏

遡ること2年前の元亀三年(1572年)――まだ織田信長が浅井・朝倉両氏や足利義昭と対立していた頃。

三好義継と松永久秀・松永久通親子が、織田家に反旗を翻したことがありました。
この連載では84話の件です。

三好と松永が謀反!そのとき信長は……超わかる信長公記84話

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彼らは織田軍の包囲を抜け出してそれぞれの居城に帰り、粘り続く抗戦しておりました。

しかし、このうち三好義継は天正元年(1573年)11月、織田軍に敗れて自ら腹を切ったため、ケリがついておりました。

信長が滅ぼし復活させた三好家「見事だった義継の散り際」信長公記103話

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するとその後、天正元年の末に松永父子が降伏。
年が明けて天正二年の1月8日に、久秀が岐阜まで挨拶しにきた……というのが、この節のお話です。

 


不動国行を信長に献上

久秀は手土産として、名刀「不動国行ふどうくにゆき」を信長に献上したといいます。
タイミングがはっきりしていないのですが、久秀は以前にも「薬研藤四郎やげんとうしろう」という短刀を献上したことがありました。

今日の我々にとって、久秀は「裏切りと降伏を繰り返した人」というイメージが強いですが、本来は文化人や茶人でもあり、目利きとしての能力も確かな人なんですね。

信長を2度も裏切った松永久秀は梟雄というより智将である~爆死もしていない!

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久秀が献上したとされる二振りの刀についても、もう少し触れておきますと……。

「不動国行」
「薬研藤四郎」

どちらもなんだか人名のようですが、日本刀の場合、名前の前半が特徴やいわくから来ている銘となり、後半が刀工の名前であることが多くなっています。

不動国行は、来(らい)派の刀工・来国行の作品です。
裏側に不動明王の浮き彫りが施されていることから、この呼び名がつきました。他にも不動行光・不動貞宗など、同じ意匠の刀があります。

鎌倉時代に作られ、足利将軍家が所有。
それを久秀がこっそり拝借し、信長に献上したというわけです。

信長の死後、不動国行は秀吉・家康と所有者を変え、明治~昭和初期までは徳川家にあったといわれています。
……が、その後行方がわからなくなってしまいました。

戦後、GHQによる武装解除が行われた際、日本刀もかなりの数が没収・海洋投棄などの処分を受けたらしいので、不動国行もその中にあったのかもしれません。

 


薬研のような硬いものでも貫ける

薬研藤四郎は、鎌倉時代の刀工・粟田口吉光(通称が藤四郎)の作品です。こちらは短刀でした。

”薬研”というのは、調薬に使われていた道具のことです。
舟形の容器と、両手で持ってその中を往復させる薬研車という2つがセットになっています。

なかなかビジュアル的な想像がしにくいですが、歴史もののドラマやマンガで徳川家康が出てくるときによくゴリゴリやってるアレ……といえば、なんとなくおわかりいただけるでしょうか。
あれは家康が調薬を趣味としていたことからきています。

上にある車輪状の道具が「薬研車」で、下にある舟形の容器が「薬研」。合わせて「薬研」という/wikipediaより引用

薬研藤四郎の名は、室町時代の持ち主・畠山政長のエピソードに由来しています。
政長が応仁の乱で敗れ、切腹しようとしたとき、この短刀を使おうとしたのですが、どうしても腹に刺さりませんでした。

なまくらかと思って苛立った政長が放り投げると、傍にあった薬研を貫くではありませんか。

このことから「薬研のような硬いものでも貫ける名刀だが、持ち主の腹は決して斬らない」という逸話と、薬研藤四郎の名がついたといいます。
政長の死後は足利将軍家に渡っていたのを、やはり久秀が手に入れ、信長に献上した……という流れです。

 

薬研藤四郎は行方不明

薬研藤四郎の行方は、信長死後、持ち主がよくわかっておりません。

・本能寺の変で焼失したため、信長のあとの持ち主はいない
・一度、豊臣秀吉の手に渡り、その後徳川家が所有した

などの説がありますが、2020年現在でも消息不明です。

日本刀は意外と、こういう物が多いんですよね。逆に「焼失した」とされる刀が近年になって見つかることもありますが。

久秀が立てこもっていた多聞山城には、信長の命で山岡景佐(かげすけ)が入り、城番を務めています。
元々は六角氏の家臣で、信長が足利義昭を奉じて上洛した頃、織田家に仕えるようになりました。

鞍替え後は真面目に仕事をしていたらしく、明智光秀の配下として動いていることもあります。

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そのためか、本能寺の変後、光秀から味方になるよう誘われていました。

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景佐は拒否したようですので、信長への忠誠心が高かったか、あるいは冷静な判断力を有していたか。

個人的には、信長のカリスマ性ということに加えて、家臣たちの日頃の働きに信長がきちんと報いていたからだと考えています。
決して横暴な魔王ではなかった、と。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
『信長と消えた家臣たち』(→amazon
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
『戦国武将合戦事典』(→amazon


 



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