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【大谷吉継】
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盟友・三成とともに起つ
慶長5年(1600年)、時代は一気に動きます。
まず、五大老の一人であり、会津の大大名である上杉景勝に対し、家康が不穏な動きありとして上洛を促します。
と、上杉景勝がこの催促を拒否。
後世の捏造説も囁かれ、もしかしたら文言に加筆修正があるかもしれませんが、いずれにせよ同様の文書はあったのだろうと見なされています。
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そして家康が上杉討伐の兵を挙げ、会津へ進軍。
吉継もこれに参戦すべく、敦賀から3千の兵を率いて、まずは三成のもとへ向かいました。
家康のもとに人質とされていた三成嫡男の重家がこのとき佐和山にいて、これを引き取るため、吉継は三成のもとへ向かったのです。
三成は家康に対し、「嫡男・重家を従軍させて不和を解消したい」と申し出ていました。
しかし、いざ吉継が三成の前に出向くと、驚きの決意を伝えられます。
家康を討つ――。
慌てふためく吉継を前に、三成はその必要性を説きます。
「いま、家康は天下を取ろうとしている。秀頼公を侮っている。太閤の恩を被りながらなんという不義か。家康を許すことはできぬ、討つほかあるまい」
「まて、家康は300万石になろうとするほどの大身だ。軍勢も多く集められる。お前はどれほど集められるのだ? 勝てるわけがなかろう。私が病身でありながら会津へ向かうのは、上杉と徳川の和議をはかるためだ。それこそ秀頼公のためではないか」
吉継は、家康とも親密な仲を築いており、その実力をよく知っています。
家康がハッキリと天下簒奪の意を示した際に動けば良い――そう考えていた吉継は、軽挙妄動によって秀頼に害が及ぶことをおそれ、慎重な行動を心がけていたのです。
しかし、いくら説得しようとも、三成の決意は固い。
吉継はやむをえず単独で会津へ向かいながら、途中で引き返し、三成と行動を共にすることとしました。
二十年以上も付き合いのある三成に対し、吉継は率直な意見を述べています。
兵力が、あまりにも心もとない。毛利輝元か宇喜多秀家を立てて事に挑むべし。
戦略的な提案を提示すると同時に、三成の性格的な欠点も指摘して、それを改めるべきだと説得しました。
三成の決意は固く、ことは内密に進められました。後に真田昌幸が「もっと早く知らせて欲しかった」とこぼしているほどですが、この密謀は即座に家康へ漏れます。
五奉行の一人である増田長盛が、家康と通じていたのです。
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関ヶ原に散る
病が進行し、このとき視力はほぼ失われていたともされる大谷吉継。
それでも西軍の将として精力的に動きました。
いったん敦賀城に戻ると東軍についた前田利長を牽制し、前田軍の動きを封じると、今度は得意の調略で、越前や加賀南部大名の取り込みも行います。
そして9月、家康が引き返してくることを察知すると、諸将を率いて美濃関ヶ原に布陣しました。
吉継は、怪しい動きをする小早川秀秋隊に対して備えていたのです。
慶長5年(1600年)9月15日、戦いの火蓋が切られました。
もはや馬にも乗れず、輿の上で指揮をとる吉継。そこへ西軍から東軍についた小早川隊が襲い掛かります。
大谷隊は激しく抵抗し、一時は小早川軍を押し返しましたが、雪崩をうつように他の部隊も東軍へ寝返ってしまい、押しまくられます。
もはやこれまでか……。
と、そのとき配下の平塚為広から、敵将の首に添えられた辞世が届きます。
名のために 捨つる命は惜しからじ 終に留まらぬ浮世と思へば
名誉の為に命を捨てるのならば惜しくなどない。この浮世に留まれるものではないのだから
吉継はこう返しました。
契りあらば 六つの巷に待て暫し おくれ先立つ事はありとも
共に命を捨てると誓ったのだ、六道の辻でしばし待っていてくれ。どちらが先に逝くかわからぬから。
そして、ついには絶命へ……自刃とも、混乱の中の討死とも伝えられます。
★
病を恥じた吉継は、死後、その首を隠すよう湯浅五助に託し、いずこかに深く埋められたと伝わります。
吉継の嫡子・吉勝は戦場を抜け出し、その後【大坂の陣】に果て、次男・頼勝は病死しました。
娘もいます。
真田信繁の正室として嫁いだ竹林院。
もともとは豊臣政権を強化するための政略結婚であり、夫婦の間には父と共に自刃した大助幸昌、伊達家に仕えた二男・大八守信、女子四名がいました。
吉継女系の血統は、この娘により伝えられています。
病身でありながら、盟友・石田三成のため輿に乗りながら戦った大谷吉継。
誠意に溢れ、最期まで壮絶に戦い抜いたその生き様は、今なお多くのファンに支持されています。
家康とも親しく、かつ三成の欠点を諌めるといった逸話からは、人柄の良さも伝わってくる。
その高潔な生き様は、義に生きた将として多くの人々を魅了し続けています。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
別冊歴史読本『野望!武将たちの関ヶ原』(→amazon)
三池純正『敗者から見た関ヶ原合戦』(→amazon)
日本史史料研究会・白峰旬 『関ヶ原大乱、本当の勝者』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon)
他