こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【大谷吉継】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
奥羽に残した禍根
大谷吉継は豊臣政権でどのような役割を期待されていたのか?
石田三成と同じく、武働きというより兵站管理や後方支援、あるいは外交や調略だったのでしょう。
天正14年(1586年)の【九州征伐】においても、兵站奉行・石田三成の下で功績をあげています。
こうした役割は、どうしても影が薄くなりがちです。
江戸時代以降、庶民に愛された軍記物では『三国志演義』の諸葛亮ですら霞んでしまう。そんな状況では、石田三成と大谷吉継の存在感が薄くなっても致し方ないことでしょう。
しかし豊臣政権のもとで重用されたのは間違いありません。
例えば、秀吉が天下人になると、全国の大名が人質の妻子と共に上洛してきましたが、そのとき彼らの屋敷をどうするのか、そもそも荒れ果てた京都をどうやって復興させるのか、その後の治安は?などなど諸問題を吉継や三成は対応していました。
その結果、天正17年(1589年)、大谷吉継は越前国敦賀郡2万余石の敦賀城主となります。
大名になっても多忙の身に変わりはなく仕事を任され、後に5万石へ加増されました。
天正18年(1590年)の【小田原征伐】にも従軍。
続けて【奥州仕置】にも出向き、出羽国では検地も担当しました。
ただし、このときの検地で禍根を残してしまいます。
豊臣政権の行く末について重要ですので、少し詳しく見ておきますと……奥羽の大名は、豊臣政権の検地に対して強い反発を抱き、出羽北部では【仙北一揆】が発生しました。
奥羽の寒冷な気候や状況を踏まえない取り立てが、大規模な一揆の背景にあったと思われます。
大谷吉継の手勢は、そこで強硬な締め付けを行ない、一揆を拡大させてしまったのです。
一揆が勃発する少し前、北条氏の所領には徳川家康が入り、東国大名の取りまとめを行なっていました。
そんな家康と比べて、豊臣政権はどうなのだ。ズカズカと乗り込んできて、東北の事情も考慮せずに強引な検地をしやがる。ヤツらは頼りにならない――そう考えた東国大名が、家康を慕う構図ができてもおかしくはありません。
いわば豊臣政権にとっては大きなマイナスであり、後の情勢に響いてきます。
傾く豊臣政権
文禄元年(1592年)、秀吉は念願の征明を開始しました。
【文禄の役】です。
豊臣政権の中心である吉継も当然のように船奉行に任じられていますが、だからこそこの出兵は不可解なものとされます。
石田三成や大谷吉継のような兵站の担当者が、事前に止められたのではないか?
どうしてもそう考えてしまうのです。
頭脳明晰であった彼らに、それがどれほど無謀なものか、わからないはずがない。
それでも吉継は、石田三成・増田長盛と共に渡海し、勤めをこなしてゆきます。
緒戦は破竹の勢いでした。
しかし長くは続かず、懸念どおり補給が途絶え、諸将の間では深刻な不和が生じてゆく……。
吉継は、明使との和睦交渉においても大きな役割を担いました。明使と秀吉の面会実現にも尽くしました。
秀吉から信頼されていただけでなく、明側からも重要視されていることが浮かび上がってきます。
しかし、この戦役の秀吉軍は、常に兵糧不足に苛まされており、戦病死者や餓死者が続出。
大名の間で生じた深刻な禍根は、取り返しのつかないレベルにまで達していました。
無益で無謀、無茶でしかない――不毛な戦役は慶長3年(1598年)、秀吉の死により、ようやく終わりを告げます。
秀吉晩年の愚行「文禄・慶長の役」なぜ明と朝鮮を相手に無謀な戦へ突き進んだのか
続きを見る
それと同時に、秀吉の死は、豊臣政権を大きく動揺させました。
秀吉の遺児である豊臣秀頼を守る【五大老】。その一人、徳川家康が秀吉の遺訓に反し、諸大名との婚儀を進めたのです。
同じく五大老の前田利家と家康の間では、ただならぬ雰囲気も漂い始め、吉継が徳川邸の警護を務めたりしています。
そして慶長4年(1599年)、前田利家が没しました。
家康の専横は、もはやとどまらぬものとなってゆきましたが、利家と志を同じくする【五奉行】石田三成では、石高が少なく動員兵力も少ない。
歯止めをかけるどころか三成自身は失脚してしまい、佐和山城の蟄居へ追い込まれてゆきます。
かつて三成や吉継と馬を並べて戦った豊臣系の武将が、ここぞとばかりに三成に不満をぶつけていたのです。
※続きは【次のページへ】をclick!