斎宮と斎院

斎宮の居室(手前は内侍) 斎宮歴史博物館/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安 光る君へ

『光る君へ』未婚の皇族女性が就く「斎宮」と「斎院」は何がどう違うのか?

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斎宮・斎院
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【薬子の変】の鎮圧を願って

源氏物語』では、光源氏のいとこ・朝顔の君が一時期務めていました。

こちらは前述の通り、京都の賀茂神社に仕えた皇族女性です。

正式には「賀茂大神斎王 (おおかみのいつきのみこ)」といい、略称としては「斎王」とも呼びました。「斎王」だと、斎宮との区別がよりわかりづらくなってしまうのですが……。

「斎院」は斎王の住んでいた御所のことです。

身分の高い人のことを指すときに住まいの名で呼ぶことは多々ありますので、なんとなく合点がいくでしょうか。

また、紫野(京都市北区)に住まいがあったことから、「紫野院」とも呼んだようです。

斎院については、都が平安京に遷った後、賀茂神社への信仰が強まったことに始まるとされます。

ちなみに「賀茂神社」と言った際は、賀茂別雷神社(=上賀茂神社)と賀茂御祖神社(=下鴨神社)の総称です。

起源については諸説あり……嵯峨天皇の時代に起きた【薬子の変】の鎮圧を願って、その皇女である有智子内親王を賀茂神社に仕えさせたのが斎院のはじまりとされています。

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以降、斎宮にならい、斎院も未婚の内親王や女王の中からふさわしい人を占いで選ぶようになりました。

斎宮にならって定められた役職なので、着任までの精進潔斎の期間や解任の条件、日頃の精進なども似ています。

しかし、斎院の御所は斎宮と比べて都に近いためか、斎宮よりも身近な存在だったようです。

 

『紫式部日記』にも登場の大斎院・選子内親王

斎院にも斎宮同様、多くの女官や役人が仕えており、来訪する貴族もたびたびいました。

特に『光る君へ』の舞台となっている時代は、五代天皇にわたって斎院を務めた村上天皇の皇女・選子内親王の時期にあたり、宮中との交流もままあったようです。

彼女は「大斎院」と呼ばれ、仕えていた女房たちの中には優れた歌人が多く、文芸サロンと見なされていました。

歌合もたびたび行われており、貴族社会での存在感も強かったと思われます。

それは当人たちにとっても誇らしいことだったようで、『枕草子』や『紫式部日記』にも選子サロンやその女房たちの話が登場します。

紫式部日記』で非常に興味深い描写あがります。

「ちょっとしたツテで、大斎院様のところにいる中将の君という女房の手紙を見る機会がありました。

思わせぶりで、”私こそ、世の中でものの趣を理解できる人物”とでもいいたげな内容でした。

それに”世の中に素敵な女房がいるとすれば、それを見抜けるのは我が主の斎院様だけでしょう”ですって。

確かに斎院様はご立派な方ですけれど、自分たちのことをそんなにも自慢する割には、斎院様の女房たちの歌で名歌と呼ばれるものはないようですよ。

趣味が良くて趣深い場所だとは聞いておりますが、斎院様の女房たちが彰子様に仕えている女房のみなさんより勝っているとは思えません」

選子サロンの自慢げな女房たちに対する敵愾心からか、なかなか辛辣に書かれていますよね。

実際、紫式部の同僚たちには赤染衛門和泉式部・伊勢大輔といった、今日まで名を残している歌人が多数いましたので、こう思うのもごく自然なことでしょう。

『枕草子』では、「職の御曹司におはします頃」の段で、とある日の早朝に選子から中宮・定子に手紙が届き、清少納言が急いで取りついだという話が出てきます。

また、賀茂臨時祭で選子の輿を見物したことなどを記し、「理想的な宮仕え先」として斎院も挙げています。

清少納言と紫式部では宮仕えをしていた時期が異なりますので、その間に『紫式部日記』で書かれているイヤな感じの女房が斎院のもとへ来たのかもしれません。

 

葵祭の行列

斎院の最も大きな仕事は、やはり賀茂神社の例祭である葵祭です。

祭りそのものについては、また別の記事で詳しくご紹介する予定ですので、今回は斎院の役目だけをお話します。

まず鴨川で禊を行った後、宮廷からの勅使・東宮(皇太子)の使者・中宮の使者とともに、下鴨神社・上賀茂神社の順で参り、勅使が天皇の祝詞を読み上げました。

この際の行列は、斎院や勅使たちはもちろん、お供をする斎院の役人や女官たちも壮麗な衣装を纏います。そのため、当時の都人にとって葵祭の行列見物は最大の娯楽でした。

『源氏物語』でも、たびたび葵祭を見物するシーンが登場します。

「葵」の帖では、斎院の行列に光源氏が参加することになったため、見物にやってきた正妻・葵の上と愛人・六条御息所の車をそれぞれ引いていた下人たちが、良い場所を巡って争ったり。

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同じく「葵」のその後のシーンでは、幼い紫の上と光源氏が同じ車に同情して別の行列を見物したり。

しばらく年月が経った「藤裏葉」の帖では、光源氏と紫の上が桟敷(見物用に設けられる舞台席)で一緒に行列を見物しています。

このように、葵祭の行列については複数回登場する一方で、斎院その人についてはあまり記述されません。

斎宮と比べて斎院は身近な存在でしたが、やはり神に仕えるお務めの最中の方だから……ということでしょうか。

『源氏物語』では、光源氏が斎院になった後の朝顔の君と文のやり取りをしていますが、それすら世間的にはあまり好ましいこととは見なされていません。

余談ですが、前述の通り賀茂の斎院は伊勢斎宮にならって作られた制度です。

さらに、斎院にならって春日・大原野の両神社に仕える女性も斎院と呼ばれるようになっていきます。ややこしや……。

そんなわけで『光る君へ』に大斎院の選子内親王が登場するかどうか、楽しみですね。

前述の通り『紫式部日記』にも登場していますし、彼女と道長との間でやり取りされた歌も伝わっていますので、当時の神職に関する空気を醸し出すには適任ではないでしょうか。

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長月 七紀・記

【参考】
日本大百科全書
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日本国語大辞典
国史大辞典
ほか

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