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【津軽信明と弘前藩】
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西津軽地震で人的被害が少なかったのは……
津軽信明は他にも出費の削減や食料備蓄、藩校の設置などを積極的に行い、弘前藩を立て直していきました。
しかし、不幸にも信明は30歳の若さで突如亡くなり、改革は頓挫……といったところで、九代藩主になったのが津軽寧親(やすちか)です。
寧親も、当初は信明の路線を引き継いで改革を続けていました。
しかし、分家から養子に入ったこともあってか、思うように進みません。
その矢先、西津軽地震で大きな被害を受けてしまうのです。
震源地側だった西津軽地域ではかなり大きな津波にも襲われました。
「天明の大飢饉で人口が激減していたから、西津軽地震での人的被害の記録が少ないのでは?」と目されているぐらいですから、規模としては相当のものだったのでしょう。
一方で蝦夷地の警備も行い、その功績を幕府に認められて10万石に加増されました。
しかし、領地が増えたからと行って、ラクになるとは限らないのが大名家の悲哀です。
◆領地が増える
↓
◆仕事が増える&家格が上がる
↓
◆それに見合った振る舞いをしなければならなくなる
↓
◆出費が倍増
そんな悲しいコンボが発動してしまうんですね。
しかも、不足を補おうとして増税してしまったため、農民に一揆を起こされてしまいました。
自分も財政改革に取り組んで失敗したばかりなのに、その状態で税を増やしたらどうなるか……とか考えなかったんですかね。
家老が諫死しても「遊興は余の病である」
寧親の跡を継いだ津軽信順(のぶゆき)は、さらにどうしようもない殿様でした。
飢饉・地震・一揆で荒れまくった領内を尻目に遊興三昧。
見かねた家老が諫死しても「遊興は余の病である」とのたまう有様です。
幸い松平家から養子入りした11代・順承(ゆきつぐ)が信明の方針に立ち返り、倹約令や経費削減などに努め、何とか弘前藩は持ち直しました。
乱暴にまとめると「藩主の家柄より養子入りした人のほうが優秀だった」ということになってしまうわけです。
しかも一度立ち直りかけたのに寧親・信順親子のせいで頓挫しているわけで、弁護のしようがありません。
戊辰戦争に間に合ったのは不幸中の幸いですかね。
弘前藩は【奥羽越列藩同盟】から新政府軍に寝返ってますが、まぁそれは時勢上仕方のないことでしょう。
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もし間に合っていなければ、最初から「ウチはお金も人も戦意もないんで降伏します。勘弁してください」と土下座することになったかもしれません。
新政府軍がそれを素直に聞いて、受け入れてくれるかというと……。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
津軽寧親/wikipedia
西津軽地震/wikipedia
津軽信明/wikipedia
津軽順承/wikipedia
津軽承昭/wikipedia
津軽信順/wikipedia