氏家卜全のイメージイラスト

戦国FAQ

なぜ美濃三人衆の氏家卜全は信長に仕えてわずか4年で世を去ったのか

美濃三人衆の一人として知られる氏家卜全。

大河ドラマ『豊臣兄弟』でも注目される武将であり、斎藤氏に仕え、その後、信長に降りますが、織田家での活躍はわずか4年ほどで終わってしまいます。

なぜ彼は短期間で世を去ってしまったのか。

氏家卜全の生涯と共に振り返ってみましょう。

 

義龍の重臣・六人衆

氏家卜全の生年は未確定。

『美濃国諸旧記』に記された享年59から逆算すると永正九年(1512年)となり、稲葉一鉄とはほぼ同世代となります(安藤守就は10歳程上)。

父は牧田城主の氏家行隆で、母は長井利隆の娘でした。

卜全は最初、美濃守護の土岐頼芸に仕えます。

しかし天文二十一年(1552年)、頼芸が斎藤道三によって追放されると、今度は斎藤家のもとで道三と斎藤義龍に仕えるのですが、それからわずか4年後の弘治二年(1556年)、美濃が大きく揺れます。

道三と義龍の間で「長良川の戦い」が起きたのです。

斎藤道三の肖像画

斎藤道三/wikimedia commons

親子が血を血で洗おうとする展開ですから、買っても負けても後味の悪い展開。

卜全は義龍の味方となり、戦いに勝利すると「六人衆」と呼ばれる重臣の一人となりました。

・安藤守就

・氏家直元

・日根野弘就

・竹腰尚光(ひさみつ)

・日比野清実(きよざね)

・長井衛安(もりやす)

六人衆とは上記のメンバーであり、安藤守就は含まれる一方、稲葉一鉄は入っていません。どうもこの頃は義龍に疎んじられていたようです。

 


義龍は内政力も有していた

氏家卜全が、現在も名城として知られる大垣城(牛屋城)へ移ったのは永禄二年(1559年)のことでした。

その一年前の永禄元年(1558年)に興味深い記録があります。

領内の村と村で「用水」をめぐる争いが起き、六人衆の連署で初めて出した文書が見つかっているのです。

要は水を巡る裁判ですね。

詳細は割愛させていただきますが、この裁判では、双方の言い分を聞き、現地を検分するなどの流れが、道三時代以前と比べて改善されており、義龍や六人衆が有能だったことを伺わせます。

大河ドラマ『豊臣兄弟』では、村同士の水争いから殺し合いに発展し、秀長の婚約者である直(白石聖さん)が殺されていました。

そうした悲劇が起きないようにするのが領主たちの存在価値となるわけです。

実際、斎藤義龍は軍事に関しても有能でした。

織田信長が桶狭間の戦いに勝利して勢いづき、同年に二度、美濃へ攻め込んだときも二度とも跳ね返し、その後も守り続けています。

斎藤義龍の肖像画

斎藤義龍/wikimedia commons

もしも義龍が50歳前後までの天寿を全うしていれば、織田軍による美濃攻略はなく、信長は伊勢方面あたりへ向かうしかない――そんな見立てもあるほどですが、実際はそうなりませんでした。

永禄四年(1561年)、33歳の若さで義龍が急死したのです。

 

人望なき若当主・龍興

跡を継いだのは、まだ15歳の斎藤龍興でした。

たとえ年若く経験不足でも、人格や頭脳が優れていれば、斎藤家臣団たちも龍興をもり立て、強固な結束のまま織田軍の攻撃を跳ね返したでしょう。

しかし龍興はそうではなかったようです。

斎藤龍興・浮世絵(落合芳幾画)

斎藤龍興・浮世絵(落合芳幾画)/wikipediaより引用

当時、愚将と呼ばれるタイプであったことは、永禄七年(1564年)に竹中半兵衛と安藤守就が「稲葉山城乗っ取り事件」を起こしたことからも想像できます。

美濃は徐々に信長に侵略されていきました。

かつて父の義龍が調略して味方にしていた尾張の犬山城が、永禄七年(1564年)に織田方へ陥落すると、翌永禄八年(1565年)、東美濃の鵜沼城や猿啄城なども攻略されてしまう。

さらには美濃中央部の松倉城などが豊臣秀吉に調略されるなどして、ジワジワと押し寄せられていくのです。

墨俣一夜城は創作ですが、氏家卜全の大垣城も尾張に近い位置にあり、織田方によるプレッシャーを受け続けていたでしょう。

そうした圧力が頂点に達したのが永禄十年(1567年)であり、同年夏、氏家卜全を含む美濃三人衆は信長へ降ることを決定。

織田方へそのことを伝えると、信長はすかさず稲葉山城下まで進軍し、瞬く間に斎藤龍興を追い出し、城と美濃国を占拠するのでした。

 

信長の気遣い

最後は電光石火の勢いで美濃を制した織田信長。

そんな信長に降った氏家卜全ら美濃三人衆は、織田方の古参武将たちと変わらぬ待遇で受け入れられました。

例えば、翌永禄十一年(1568年)に足利義昭を奉じて上洛するときもそうです。

南近江で六角義賢の箕作山城へ攻めかかるとき、織田へ降ってきたばかりの三人衆が、最も危険な先陣を請け負うのが戦場での常なのに、信長はそうとは命令しませんでした。

織田信長の肖像画

織田信長/wikimedia commons

ただし、その後の戦場で活躍が認められなければ武将としての存在価値が無くなるわけで、逆に必死になったのでは?とも指摘されます。

永禄十二年(1569年)には北畠具教が守る伊勢大河内城攻めに従軍し、元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参戦しました。

美濃三人衆は柴田勝家の軍に属して行動することが多く、それが氏家卜全の運命を決めます。

元亀二年(1571年)5月のことです。

相手は伊勢の長島一向一揆でした。

 


長島一向一揆

長島一向一揆は、織田信長が2万人の衆徒を虐殺したことで知られる合戦です。

といっても、織田から一方的に仕掛けたわけではありません。

キッカケは元亀元年(1570年)11月、信長の弟・織田信興のいる小木江城が一揆勢に攻められ、自害へ追い込まれたことです。

このとき織田軍の主力は石山本願寺・浅井・朝倉・延暦寺らと対峙しており、とても伊勢に兵力を回す余裕はなく、そこを突かれたのですね。

そのリベンジとばかりに信長は元亀二年(1571年)5月、尾張の西にある伊勢の長島一向一揆討伐に向かいました。

しかし、一揆勢は強力でした。

文亀元年(1501年)に願証寺という寺ができ、その周囲に数多の軍事拠点が築かれていたのです。

※以下の地図を参照(左側の赤い拠点が願証寺で、中央の黄色い拠点が清洲城、上部の黄色い拠点が岐阜城)

Googleマップより

同エリアは木曽川の流れが複数に分かれる中洲地帯で、拠点も分散しているから非常に攻めにくく、結局、織田軍は退却を余儀なくされます。

そこで殿(しんがり・軍の最後尾)を受け持ったのが柴田勝家でしたが、織田軍を待ち構えていた一揆勢に襲われて負傷。

代わりを務めたのが氏家卜全です。

しかし“鬼柴田”と呼ばれる勝家ですら負傷させられた苦境を一変させることは不可能でした。

卜全は、負傷どころか、ここで戦死させられたのです。

元亀二年(1571年)5月12日でした。

氏家卜全

岐阜県海津市南濃町安江にある卜全塚/photo by 立花左近 wikipediaより引用

こちらの一枚は『新撰美濃志』に伝わる「卜全塚」となります。

また、その南には「卜全沢」と呼ばれる谷もあり、卜全の首を洗ったところから名付けられました。

亡くなった地には彼を偲ばせるものが残っているのですね。

織田軍は、長島一向一揆をただ一方的に虐殺したわけではありません。

戦いは以下のように三度に渡っており、

①元亀二年(1571年)5月

②天正元年(1573年)9月

③天正二年(1574年)7月

最初の二度は織田方の敗戦であり、苦戦続きでした。

詳細については別記事「長島一向一揆の全貌」をご覧いただければ幸い。

氏家卜全の子孫などについても触れている詳細については「氏家卜全の生涯」からご覧ください。

◆ 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

◆ 『豊臣兄弟』総合ガイド|登場人物・史実・出来事を網羅


参考書籍

木下聡『斎藤氏四代:人天を守護し、仏想を伝えず』(2020年2月 ミネルヴァ書房)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(2010年11月 吉川弘文館)

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BUSHOO!JAPAN(五十嵐利休)

武将ジャパン編集長・管理人。 1998年に大学卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として20年以上活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、累計4,000本以上の全記事の編集・監修を担当。月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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