慶長7年10月18日(1602年12月1日)は小早川秀秋の命日である。
関ヶ原の戦いで東軍に寝返った武将として知られており、“裏切り者”のイメージが強い一方、最初から東軍だったのでは?という指摘もあり、いまいちポジションのわかりにくい秀秋。
厳然たる事実として残されているのが、小早川秀秋の攻撃がキッカケで大谷吉継らの陣が崩れ、西軍が敗北に至ったことだろう。
その後の秀秋の心中はいかなるものだったのか?
関ヶ原の戦いは慶長5年9月15日(1600年10月21日)に始まり同日に決着。
それからわずか2年後に亡くなってしまうまでに一体何があったのか?
秀秋の晩年を振り返ってみよう。

小早川秀秋/wikipediaより引用
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秀吉の養子となった北政所の甥
まずは略歴を確認しておこう。
小早川秀秋は天正10年(1582年)生まれ。
父は木下家定で、父の妹に北政所がいる。
北政所は“寧々(ねね)“の名で知られる豊臣秀吉(羽柴秀吉)の妻であり、秀秋は幼少期から利発な少年として北政所にも可愛がられ、天正12年、数え3歳のとき秀吉の養子に迎えられている。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
後継者として期待されていたのだろう。
わずか7歳のときに元服して、従五位下・侍従に任官されるほどだった。
豊臣のホープとして輝かしい将来が見えていた秀秋の運命が急転直下となるのは天正17年(1584年)のこと。
秀吉に豊臣鶴松(淀殿の最初の子)が生まれると秀秋は嫡男の座を降ろされ、羽柴一門衆の扱いとなり、その後、鶴松が亡くなって再び家督継承の可能性が出るも、文禄2年(1593年)、淀殿が豊臣秀頼を出産。

豊臣秀頼/wikipediaより引用
完全に立場の浮いてしまった秀秋は文禄3年、小早川隆景の養子となり、毛利輝元の養女を娶ることになった。
そして文禄4年8月に筑前33万石の小早川家を継承した秀秋。
駆け足の説明となってしまったが、生誕から程なくして非常に複雑な経緯を辿ってきたことがご理解いただけるだろう。
関ヶ原では西軍だったのか東軍だったのか
慶長5年9月15日(1600年10月21日)に勃発した関ヶ原の戦い。
小早川秀秋が西軍だったのに裏切ったのか、それとも最初から東軍だったのか。
明確な答えは本人しかわからないため今もって真相は謎ながら、関ヶ原の戦場を見下ろすことができる松尾山に陣を張った時点では「未定だった」と見られている。
「自軍に加われば◯◯を与える」
そんな起請文が石田三成からも徳川家康からも与えられていたのだ。
しかし、現実的に本人の腹は東軍で決まっていたのかもしれない。
というのも北政所と親しい黒田長政や浅野幸長が積極的に東軍への参戦を働きかけており、戦の前日に家康に対して東軍参戦の約束をしたという指摘がある。

黒田長政/wikipediaより引用
そもそも松尾山に入ったのも石田三成からの攻撃を避けるための緊急的な措置だったとも。
なにより戦後の結果にそれは現れているとも取れる。
実は合戦当日、小早川秀秋が攻撃を仕掛けると、最初は西軍だった脇坂安治・小川祐忠・赤座直保・朽木元綱も裏切って東軍に加わり、勝利のキッカケになったが、戦後の論功行賞で小川祐忠と赤座直保は所領を没収されているのだ。
事前に家康に呼応していた脇坂安治は本領を安堵され、朽木元綱は減封。
それに対して小早川秀秋は、旧宇喜多領である備前美作57万石へ大幅な加増となった。
明確な東軍参戦を前もって家康に告げていなければ、こうした待遇は望めなかったのではなかろうか。
しかし、勝利の美酒は秀秋の心を癒やすどころか蝕んでいく。
鷹狩に出かけ気分が悪いと横になったまま……
関ヶ原の戦い後、小早川秀秋は酒に溺れていくようになったという。
秀秋を我が子のように可愛がっていた北政所が心を痛めるほどで、慶長7年に入ると名を「秀詮」に改めているのだが、その後程なくして、北政所に金子50枚(500両)という大金を借りている。
使途は不明で、酒に溺れていると噂されている最中のことだけに、彼女も心配であったろう。
いずれにせよ不可解な行動である。

秀吉の妻・ねね(寧々 北政所 高台院)/wikipediaより引用
そして慶長7年10月15日、鷹狩に出かけた秀秋は、城に戻ると気分が悪いと横になったまま、そのまま倒れ込んでしまう。
17日にはいったん持ち直すも、18日未明に死去。
死因は不明だ。
酒に身体を毒されていたのかもしれないが、なんせまだ21歳である。
後継者がいなかったため小早川家は断絶。
三日前の15日には実兄の木下俊定も亡くなっており、不可解な点も多い。
関ヶ原の戦いで深く悩み、良心の呵責に耐えきれず狂死したとも指摘される秀秋。
彼の死により、羽柴の一門衆はついに一人もいなくなってしまった。
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参考文献
- 『事典にのらない戦国武将の晩年と最期(別冊歴史読本 94)』(新人物往来社, 2004年9月, ISBN-13: 978-4404030948)
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