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【土御門通親】
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幼帝の外戚として並ぶものなき地位へ
建久6年(1195年)は運命の年となります。
同年8月に九条兼実の娘である中宮任子が天皇の子を出産するも、皇子ではなく女子(昇子内親王)。
その3ヶ月後の11月、今度は土御門通親の養女・在子に生まれました。
待望の男子(為仁親王・後の土御門天皇)です。
こうなると、通親は俄然勢いに乗る。
言わずもがな、外孫である皇子を掲げ、兼実を追い落とす絶好の機会となったのです。
そして翌年の建久7年(1196年)11月、中宮任子が内裏より退出させられ、兼実も関白の座を追われました(建久七年の政変)。
かつて兼実の盟友であった頼朝も、この政変は見守るしかありません。
頼朝にしたって、長女の大姫を後鳥羽天皇に入内させ、その寵愛を競わせる腹積りでした。しかし……。
大姫は病がちであり、それが叶わぬまま亡くなり、通親の勝利を見ることとなります。
と言っても通親がその地位を完全なものとするには、外孫である皇子をきちんと即位させねばなりません。
着々と自分の意に添う公卿を揃えてゆく通親。
後鳥羽天皇もまた譲位に前向きでした。
二十歳で譲位というのはまだ早いと思われるかもしれませんが、若く気力のあるうちに上皇として院政の足場を固める方が得策と考えていたのです。
かくして建久9年(1198年)に後鳥羽天皇が退位すると、立太子すらされていないわずか3歳の為仁親王が、土御門天皇として即位したのでした。
源博陸
異例づくしの譲位の背景には、むろん通親がいました。
外戚として絶大な権勢を振るう通親は、いつしか「源博陸(げんはくろく・博陸は、漢武帝が霍光を博陸侯に任じたことにちなむ関白の漢名)」と称されることになったのです。
建久10年(1199年)、そんな得意満面の通親のもとに衝撃的な急報が鎌倉より届きます。
通親を支持していた頼朝が亡くなったのです。
このとき通親は、右近衛大将の就任を考えていました。
そしてその支持を得るため、頼朝の嫡子・源頼家を左近衛中将に昇進させることにしていたのですが、頼朝が死んだとなれば頼家は服喪のため昇進できない。
当然、自身の就任も無くなる……と思いきや、通親は除目を先に行い、そのあとで頼朝の死を発表するという荒業にでました。シラを切って順番を逆にしたんですね。
これを知った藤原定家は「奇謀の至りではないか」と呆れています。
政治力に長けた通親は、それでも鎌倉の大江広元と連携し、「通親を排斥させようとする動き」をなんとか阻止しました。
なお、この排斥事件は【三左衛門事件】と呼ばれ、一条能保・高能が関与していました。
どこまで関与したかは不明ながら、破戒僧・文覚を追放する契機になったともされます。
いずれにせよ転んではただでは起きぬ通親。
このピンチを切り抜けることで、大江広元らとの連携を深めることに成功したと言えるのではないでしょうか。
頼朝亡きあと、後継者は嫡男・源頼家となりました。
二代目鎌倉殿の体制には、京都からも熱視線が集まるところ。
将軍による独裁が続行されるのか?
それとも合議制となるか?
ここでは北条家の言い分が通り、北条政子が主導して構成員を決めたとされる【十三人の合議制】が整えられます。
しかし13人に選ばれた中で、梶原景時が真っ先に失脚、一族もろとも滅ぼされました。
景時は京都で評判が高く「鎌倉本体の武士」とまで評価されていて、【三左衛門事件】も景時の子・梶原景季が通親に報告したことで発覚したとされます。
こうしたことからか、九条兼実は景時の死に通親も関与しているのではないかと疑っているのですが……それは景時の死を企んだのが通親ならば失脚も狙える……という兼実の願望ありきの疑念にも思えます。
実際、通親は失脚するどころか、九条家や近衛家の面々を引き立て、融和をはかるようになりました。
兼実の目論みは大ハズレとなり、まさかの敵まで取り込む政治的手腕を発揮するのです。
頂点での急逝
正治2年(1200年)、後鳥羽上皇の第三皇子・守成親王(のちの順徳天皇)が立太子されました。
このとき、通親は東宮傅(皇太子の後見)となります。
将来の天皇を養育する安泰の役目であり、歌人としても名高い通親は、後鳥羽院の歌壇でも存在感を見せつけました。
ありとあらゆる場において、並ぶもののない権勢を身につけていたのです。しかし……。
建仁2年(1202年)10月21日、通親は夜中に頓死を遂げます。
まだ54歳。それまで精力的に活動していた人物の急死は、各方面に衝撃をもって受け止められました。
通親の死のあと、才知溢れる後鳥羽院を止める者はいなくなり、その言動はますます過激化していくのです。
九条兼実ほど記録を残しておらず、知名度もそこまで高くない。
それでも史実におけるこの時代、あるいは『鎌倉殿の13人』において、土御門通親は重要な役割を果たします。
通親は柔軟でした。
“敵の敵は味方”と割り切り、自分の利となるのであれば、後白河院と丹後局、源頼朝や大江広元とも広く親しく付き合いました。
三種の神器にはこだわらず天皇を即位させること。
服喪期間はできぬからと除目をさっさと先に済ませたこと。
こうした言動は彼のライバルである九条兼実とは、対照的な行動といえます。
通親は有能で知識も豊富ながら机上の空論ではなく、己の利を求める狡猾さがあるように思えるのです。
武家ではないけれど時代を動かした一人の有能な公家。
なかなかの人物だったのではないでしょうか。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
橋本義彦『源通親』(→amazon)
近藤成一『鎌倉幕府と朝廷』(→amazon)
他