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【土御門通親】
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「三種の神器」が無くてもOK
「よりにもよって武士が口を挟むことは何事か!」
木曽義仲の政治的主張は、そんな驚きと不快をもって受け止められました。
義仲は、都での不作法や、飢饉の最中での乱暴狼藉が原因で嫌われたと考えられがちですが、後白河院から強く睨まれるようになったのは、この皇位への進言とされています。
かくして後鳥羽天皇の即位が決められても、大問題が持ち上がりました。
即位に必要な「三種の神器」がない――。
平家も、こうした局面を見越して持って行ったのでしょう。
前例主義で儀式が行えず、右往左往する朝廷……と、ここで立ち上がったのが土御門通親です。
通親は、華麗なる弁舌と豊かな知識を披露し、中国の例を引きました。
後漢・光武帝や東晋・元帝のように、戦乱を経て即位する場合、伝国璽(皇帝専用の印)がなくともまずは即位させ、その後に探す――。
当時の日本では、中国の先例があれば正当性があると主張できたのです。
結果、即位を先にして、三種の神器奪還を後回しにすることが可能となりました。
しかし、そんな最中に木曽義仲が暴挙に出て、後白河院の御所である法住寺を襲撃(法住寺合戦)。
このとき通親も法住寺にいた公卿の一人とされ、政権を奪取した義仲のもとで精勤していた公卿の名にも含まれています。
ただし通親も、ずっと仕事をしていたわけでもなく、ぷっつりと名前が記録から消えている時期もあります。
憂鬱な心情を表した『擬香山模草堂記』という散文には、このころの通親の心が反映されているとされます。
そんな現実逃避をしてしまうほどの乱世であり、九条兼実はこうした様を「まるで『三国志』のようだ」と嘆いていたほどです。
後白河院に接近し 兼実のライバルに
乱世は、源平合戦の終結と共に、ようやく終わりへ向かいます。
しかし、木曽義仲の敗死や平家の滅亡など、目まぐるしく起きたトラブルによって、都人は武士たちに疲れ切っていました。
そんな中、東にいる源頼朝こそ、なかなかの器量だという噂が流れてきます。
中央の期待は頼朝に集まりつつありました。
一方、その弟である源義経が、義仲と平家を倒す功績をあげながら、兄と対立して都落ちをしていまい、都人も義経に同情……。
と、まだまだ武士に振り回される世が続き、その状況に疲れ切っていたのが九条兼実でした。
後白河院に仕えていた兼実は、主君の場当たり的な言動に嫌気がさしていたのです。
東から源頼朝が上洛してきたのは、まさにそんなタイミングのことでした。
後白河院に振り回され、朝廷の腐敗を痛感していた頼朝は「天下草創」を掲げ、廟堂改革を要求。
コロコロと変わる追討宣旨に関わった公卿の人事刷新を求めてきます。
そして議奏公卿10名を指名したのですが、その中には九条兼実と並び、土御門通親も選ばれました。
頼朝は守護・地頭の設置を求め、認められていました。この権限により、通親は因幡国が知行国となります。
通親こそ、朝廷刷新のエース!
そう期待されるのも、単に血筋や実力だけでもありませんでした。
通親は後鳥羽天皇の乳母・藤原範子を室に迎え、範子の連れ子である在子を養女としていました。
当時は乳母とその夫の力が強い時代です。
後鳥羽天皇の御乳父(おんめのと)である通親は、名実ともに揃った実力派公卿となったのです。
しかし、後白河院も対抗措置を取り、頼朝の改革を空洞化させようと動きます。
頼朝が追放したはずの公卿も復帰し、頼朝と手を組んでいた兼実も朝廷で浮き上がってしまう。
一方で、兼実と通親は、当初は良好な関係でした。
ところが官位昇進をめぐり、兼実は通親を「獣のような恩知らずめ!」と罵倒する事件を起こして両者は決裂。
通親は敵の敵は味方とばかりに、兼実が嫌う法皇に接近してゆきます。
後白河院の寵姫であり、兼実が嫌う丹後局にも取り入るようになりました。
さらには後白河院の内親王であり、丹後局を母とする宣陽門院覲子の後見人を務めることとなったのです。
後白河院の崩御
文治6年(あるいは建久元年、1190年)――後鳥羽天皇が元服。
九条兼実は娘の任子を入内させ、中宮とします。
そして建久3年(1192年)に後白河院が崩御すると、源頼朝は征夷大将軍に任官されました。
後白河院崩御のあと、通親のライバルである兼実は次第に人望を失ってゆきます。
兼実は敵を作りやすい性格でもあり、通親はそんなアンチ兼実公卿の不満を受け止め、味方に引き入れていったのです。
さらに通親は、兼実にとって“敵”にあたる頼朝にも接近します。
頼朝は娘・大姫の入内を狙っており、任子を中宮としている兼実にとっては目障りな“敵”であったのです。
ライバルの兼実はそれをどこまで気づいていたのか。
通親は、長いこと己を苦しめてきた後白河院が崩御し、頭上の重苦しい雲が晴れたような気分であったとしてもおかしくはありません。
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