団体でも一人旅でも悪目立ちしにくく、ぼっち上等な人間には出かけやすい場所で実にありがたいものです。
本日は、おそらく京都を訪れたことがあってもなくても知っているあの場所に注目。
宝徳2年(1450年)6月2日は細川勝元が龍安寺を創建した日です。
このお寺と、必ずセットで語られるのが龍安寺石庭ですね。
教科書でも京都のガイドブックでも、必ず写真が載っていて、
【15個の石はどこから見てもすべては確認できず、日本文化における「不完全の美」を表している】
というのが定説です。
が、実は全部見られるポイントがあるそうで、詳細はこちらのリンク先(→link)でどうぞ。
今回は、龍安寺や石庭が作られ、現代に繋がるまでの経緯を見ていきましょう。
建立直後に応仁の乱勃発!
前述の通り、龍安寺が建立されたのは宝徳2年(1450年)のこと。
室町幕府のNo.2である管領の細川勝元が建造しました。
※以下は細川勝元の関連記事となります
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しかし、二十年も経たずして建造させた当人が【応仁の乱】をおっ始めてしまい、見るも無残に焼失してしまいます。いろんな意味で罰当たりですね。
そして乱が収まった後、龍安寺は勝元の息子・細川政元によって再建されました。
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石庭が造られたのはこの細川政元のときです。
そして、江戸時代の中期・寛政9年(1797年)にまたも火事が起き、お寺の大部分が焼失。
このとき建物だけでなく、建造・造園に関する資料その他も散逸してしまい、誰が設計したのか、実際に作業をしたのは誰なのか?といった大事なことがほとんどわからなくなってしまいました。
般若房鉄船禅師の頂相を探しておりますby龍安寺
この庭のナゾを探るべく、龍安寺では作庭に関わったといわれている【般若房鉄船禅師】という人の詳細を調べているとのことです。
公式サイトに画像があります。
↓
「白黒のページに人物画像がドーン!」
という配置のせいか、何だかコワく見えてくるのは気のせいでしょうか。
幸村と妻・竹林院のお墓が鏡容池に
龍安寺といえば、石庭や本殿に行く前の鏡容池(きょうようち)も有名です。
実はこの池の中にある弁天島という小島に、真田信繁(真田幸村)とその妻・竹林院(大谷吉継の娘)のお墓があるらしいですよ。
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竹林院は大坂夏の陣のあと無罪放免となり、京都で暮らしていたため、娘(七女おかね)と石川貞清の夫婦がお墓を建てたのだとか。
鏡容池は仲の良い夫婦の代名詞・おしどりで有名なところだったらしいですし、信繁夫妻も子沢山だったのでここになったんですかね。
原則非公開なので検索しても画像は出てきません。
一般公開となると、ただでさえ観光客が多いところなので大変なことになりそうですしね。24時間営業するわけにもいかないですし。
個人的には石庭の反対側も好きです。
数年前に行ったとき、通を気取って石庭からぐるっと回って戻ってくる廊下あたりをゆっくり眺めていた記憶があります。
その間には非公開の建造物へ続く廊下もあるのですが、立ち入り禁止の場所ギリギリってなんかそそられません……?って、ワタクシだけですかね。
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長月 七紀・記
【参考】
龍安寺/公式サイト
国史大辞典
丸島和洋『真田四代と信繁 (平凡社新書)』(→amazon)
龍安寺/wikipedia