中原親能

源平・鎌倉・室町

中原親能は大江広元の兄だった?朝廷官吏から頼朝の代官に転じた鎌倉幕府の重鎮

史上初の武家政権となった鎌倉幕府

武力に頼ってきた武士が政治を担うとなると、行政をサポートする人物が必要になりました。

そのため源頼朝は、ツテをたどってさまざまな役人経験者を呼び寄せています。

そうした元・朝廷の役人→鎌倉幕府の中で重役に転身した一人が中原親能(なかはらちかよし)であり、承元2年(1209年)12月18日はその命日です。

同じく鎌倉幕府の重鎮・大江広元の兄としても知られていますが、実は両者とも出生についてはまだ確定していません。

本稿では、中原親能の生涯を辿ってみましょう。

 


中原親能の出自に二つの説

まずは中原親能の出自について。

大きく分けて二つの説があります。

一つは「実父が藤原光能(みつよし)であり、外祖父にあたる中原広季(ひろすえ)の養子になった」というもの。

実父:藤原光能

本人:中原親能→祖父・中原広季の跡を継ぐ

母方の実家から「中原氏」を継いだカタチになりますね。

典拠となるのは中原親能の猶子・大友能直(よしなお)から始まった大友氏の系図です。

もうひとつの説は『尊卑分脈』という書物(系図集)の中に書かれたもので、次のようなことが記されています。

「親能は中原広季の実子で、広元と異母兄弟である」

いずれの説も後年のものですので、どちらが正しいか判然としません。

ただし、康治二年(1143年)という誕生年はほぼ確定しており、弟の大江広元が久安四年(1148年)生まれですので、兄弟なら自然な年齢差ですね。

大江広元/Wikipediaより引用

親能はさらに、少々変わった生い立ちを持っています。

幼少時、なぜか相模の「波多野経家」という武士に育てられていたというのです。

この経家の娘が、嫁ぎ先で大友能直を産んでおり、後々まで続く縁となったばかりか、中原親能本人の妻も経家の娘だという説があります。

なんだかややこしくなってきましたね……。

出自についてはこの辺にしておき、源頼朝の関わりを見ていきましょう。

実はこのころ親能は、流人となっていた頼朝と知り合っています。

頼朝は久安三年(1147年)生まれで、伊豆へ流されたのが永暦元年(1160年)、挙兵するのが治承四年(1180年)。

1147年 源頼朝生まれ

1160年 伊豆へ流される

1180年 挙兵

九条兼実の日記『玉葉』によると、この治承四年(1180年)の挙兵前に、中原親能は、源雅頼(みなもとのまさより)の家人となっていました。

雅頼は村上源氏の人で、頼朝たちの河内源氏(清和源氏の一つ)とは異なる血筋ですが、この時点で親能は、京都における頼朝の情報源の一人になっていたとされます。

また、主人である雅頼も同じく、頼朝寄りの言動を取っていたようで、それが平家方にバレてしまい、治承四年(1180年)12月6日に雅頼邸が取り調べられてしまいました。

中原親能は間一髪セーフ! 踏み込まれる前に逃げ出し、命拾いしています。

 


法住寺合戦

雅頼邸を平家に踏み込まれ、そのまま鎌倉に下ったのか、しばらく身を隠していたのか?

しばらく中原親能の足跡を追えなくなりますが、最終的に鎌倉へ落ち着いたのは確かなようで、日記『玉葉』の寿永二年(1183年)9月4日にこう記されています。

『親能が頼朝の使者として上洛する予定』と雅頼から聞いた

親能が上洛したのは、おそらく京都の食糧事情が悪かったからでしょう。

この時期の京都含めた西日本は、養和元年(1181年)に起きた【養和の飢饉】の影響から抜けきれていませんでした。

そこへ木曽義仲軍が平家追討で入京してきたため、兵糧の負担を強いられた庶民たちが一層困窮していたのです。

木曽義仲/wikipediaより引用

そこで頼朝は同年10月、中原親能と源義経を共に京都へ向かわせています。

この時点での義経は「頼朝の弟らしき人物」程度しか知られておらず、また京都の事情にも明るいとはいえなかったため、親能がお目付け・指導役を兼ねて同行することになったのかもしれません。

単独で京へ入って、アレコレやらかしていた義仲の轍を踏まぬように……ということでしょうか。

しかし、数百しかいなかった義経・親能一行は、義仲が占拠したも同然の京都へなかなか入れません。

彼らは11月に近江へ入った後に伊勢へ移り、ここで国人を数名味方につけて好機を待つことにします。

ところが……。

その最中に義仲が【法住寺合戦】を起こしてしまったものですから、さあ大変。義経は急いで頼朝に飛脚を出し、事の次第を伝えました。

義経は後年、連絡不足から頼朝の不信感を招き、滅亡に追い込まれてしまいますが、戦に関する連絡はきちんとしていたんですよね。

知らせを受けた頼朝は、年が明けて寿永三年(1184年)1月、もう一人の弟・源範頼を京都へ向かわせました。

範頼と義経は合流し、【宇治川の戦い】で義仲を破ります。

この間に親能が何をしていたのか?

というと、やはり不明瞭です。

親能は後年「武器を取る者ではない」と頼朝からも言われているように、根っからの文官。前線に立つことはなかったという予測は付きます。

軍監のような立ち位置で後方にいたか。

あるいは密かに入京して雅頼邸や中原邸あたりに身を寄せていたか。そのあたりでしょう。

少なくとも義仲を討った後は雅頼邸に入っていました。

 


京都鎌倉 行ったり来たり

その後しばらくは京都にとどまり、公家との交渉や平家追討作戦などに従事。

寿永三年(1184年)2月5日には、一ノ谷に到着した義経軍の一員として名前が登場します。

文官である親能が、馬で崖を駆け下りる【鵯越の逆落とし(ひよどりごえ)】に参加したとも思えないので、ここでもおそらく後方に控えていたのでしょう。

鵯越の逆落とし『源平合戦図屏風』/wikipediaより引用

その直後、2月16日には「頼朝を上洛させよ」という後白河法皇の意向を受けて、親能は鎌倉へ戻っています。

そして4月29日には、またしても鎌倉から京都へ向かいました。

まるで現代の吉本芸人のような慌ただしさ。

といってもこればかりは仕方なく、文官だけに、平家討伐までの間は京都で「事務処理を行う役」に選ばれたのです。

このときは上方での足となる軍船を用意するため、土肥実平梶原景時も同行していました。

実は、前日28日にもう一つ仕事を追加されていました。

「平家軍が瀬戸内海に落ち延びた」という情報が鎌倉に入り、頼朝は西宮の広田神社で戦勝祈願の祈祷をしてもらおうと考えました。

神社もタダでは祈祷をしてくれませんので、費用として淡路島の広田庄を寄進する旨を手紙に書き、親能に対して命じています。

「神祇官長官の仲資王にこれを提出し、便宜を図ってもらうように」

あっちへ行ったり、こっちへ来たり。荷物の量や人数にもよりますが、当時の京・鎌倉間はおおよそ半月程度の旅程。

親能の旅程に関する詳細は不明ながら、半月かけて移動し、1~2ヶ月程度で再び戻る……というのは、なかなかのハードスケジュールです。

親能はフットワークが軽くてタフな人だったのかもしれません。

前述の通り、彼は公家出身でありながら地方育ちでしたので、他の文官たちより体力があっても不自然ではなさそうです。

 

壇ノ浦で平家滅亡

この後、鎌倉にいつ戻っていたのか、記録はありません。

元暦元年(1184年)10月6日に新築の【公文所】で吉書始めがあり、中原親能も参上して寄人の一人に命じられていますので、少なくとも前日までには戻っていたでしょう。

次は年が明けて元暦二年(1185年)1月26日。

九州に渡った源範頼軍の中に親能の名が登場します。

源範頼/wikipediaより引用

範頼は前年8月から九州へ進軍するよう命じられており、長門までは至ったものの、船が手配できずに立ち往生していました。

そして、この1月26日に近辺の豪族が船と兵糧を提供してくれたので、ようやく周防から豊後へ渡ることができた、という記述です。

親能がいつごろ範頼軍に合流したのかについては、やはり記載がありません。

参考までに……現代の道路で鎌倉~京都間が432km、京都~防府までが474kmとなっています。

ということは、親能は単純計算で一ヶ月以上かけて移動したことになります。

おそらく、元暦元年の12月頃に出発したのでしょう。

この後、頼朝は元暦二年2月に範頼との手紙をやり取りしながら、同行していた親能や北条義時、比企朝宗&能員に

「平家を滅ぼすまでは皆心を一つにせよ」

と命じています。

すかさず「平家を滅ぼした後はどうなっちゃうの?」とツッコミたくなりますが、それこそが大河ドラマの見どころになりますね。

平家という共通の敵を倒すまで身内争いする余裕などなく、頼朝の苦心している様が垣間見えます。

頼朝は、中原親能を含め、源範頼らに対し、戦功や行軍への協力を褒め称える手紙を出していました。

そして無事【壇ノ浦の戦い】で平家を討ち果たし、最大の問題は片付きました。

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