こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【中原親能】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
義経と頼朝はなぜ対立したのか?
しかし、一難去ってまた一難となるのが時代の境目というもの。
中原親能本人の話題からは少し離れますが、当時の状況確認ということでしばしお付き合いください。
平家を滅ぼした最大の立役者である源義経と源頼朝がなぜ対立したのか?
その最大の理由が、元暦元年(1184年)8月に
「義経が頼朝の許可を得ずに、後白河法皇の命で検非違使及び左衛門尉に就任した」
ことでした。
実はその2ヶ月ほど前、範頼も頼朝の許可を得ず、三河守に任じられています。
これでは源氏の組織体制に問題が生じてしまうのです。
頼朝は
後白河法皇
|
源頼朝
|||||
範頼・義経他源氏の人々
という構図を作りたい。
ところが後白河法皇から直接任官されると
後白河法皇
|||||
頼朝・範頼・義経他源氏の人々
という構図になってしまいます。
”頼朝が源氏の棟梁である”という意味と立場が薄れてしまうんですね。
かくして頼朝は元暦二年(1185年)4月15日、配下の者たちにかなり辛辣な手紙を送ります。
「後白河法皇から勝手に任官を受けた武士たちは、もう俺の配下ではなく朝臣なのだから、関東に帰ってこなくてもいい」
※関東に戻りたければ官位を返上しろ
しかも、冷たく突き放した後、一人ひとり事細かに罵倒したのです。
罵倒とは言い過ぎのように思われるかもしれませんが、例えば
「髪が薄くて髷を結うのもやっとのくせに」
とか
「人相が悪いな」
といった、子供の口喧嘩みたいな書状を送ったのです。頼朝、どんだけ……。
こうなったら、御家人たちのやることは一つ。
頼朝サンに詫びを入れるしかない!
と言わんばかりに当時の多くの御家人はこの時期、頼朝へ謝罪していました。
範頼はまだ九州にいましたが、頼朝の不機嫌をどこかから伝え聞いたのか、元暦二年4月24日に「三河守を辞退したいと思います」という手紙を鎌倉へ届けています。
この手紙は親能から頼朝に披露され、指示を仰いでいます。
頼朝は「返上するならば良し」と考えたのか、範頼の手紙を後白河法皇へ提出するように命じました。
そして、この「自ら返上を申し出たかどうか」という点が、範頼と義経の命運を分けることになります。
ご存知の通り、義経は滅亡へ追い込まれるのですが、源範頼の詳細については以下の記事をご参照ください。
源範頼が殺害されるまでの哀しい経緯 “頼朝が討たれた”の誤報が最悪の結末へ
続きを見る
親能の妻が頼朝の次女の乳母に
平家討伐が終わった後も、中原親能の仕事はあまり変わっていません。
京都と鎌倉を行き来する日々。
他の文官たちと比較してもその頻度は高かったようですが、さらには文治二年(1186年)に生まれた頼朝の次女・三幡(さんまん・乙姫)の乳母を親能の妻が務めることになり、親能も乳母父として新たな役割を担ういます。
三幡との間に特筆すべきエピソードは伝わっていませんが、後述の理由からすると、親能から姫への感情はかなり厚いものだったでしょう。
文治三年(1187年)2月16日には、朝廷へ献上する馬を十頭連れて上洛の途についています。
『吾妻鏡』にしては珍しく、馬の毛色などに関する記述ナシ。
吾妻鏡は諸々の記録を後年に編纂したものですので、同日があまり残っていなかったか、あるいは散逸・焼失してしまったか。
この上洛中に、少々困ったことも起きました。
後白河法皇から何度も「京都市中の治安が悪化している」とクレームが入っていたのです。
そこで頼朝は、文治三年8月19日、千葉常胤と下河辺行平に上洛を命じます。
このころ親能は京都に滞在し、大江広元と里内裏閑院殿の修理にあたっていましたが、彼らには兵力がないため、抑止力にはなりません。
頼朝は朝廷側の窓口になっていた吉田経房に、以下の要点を記した手紙を送っています。
・親能と広元には武芸の心得がなく、治安維持は荷が重い
・そのため常胤と行平を向かわせる
・こういった事情と対策を後白河法皇によく伝えてほしい
頼朝が御家人たちの得手不得手を熟知し、それぞれの得意分野で活かそうとしていたことがわかりますね。
京都の治安がどれほど乱れていたか。というと、この後8月25日に「8月15日に京都で行われた放生会の際、見物人の間で乱闘が起き、怪我人が出た」と広元から報告されており、当時の状況がうかがえます。
頼朝は、関東から京都に行っている武士連中が困窮し、暴徒になりかかっているのでは?と懸念していたようですが、これは勘違い。
9月20日付けの吉田経房の手紙では武士の重要性を訴えてます。
「おそらく、騒ぎを起こしているのは京都周辺の出で都の事情に詳しい者たちでしょう。最近は検非違使の力が弱いので、関東武士の力が必要です」
また、行平と常胤が上洛した後は、治安もだいぶ回復したようで、経房は
「二人が京都に来てから、都はずいぶん静かになりました。法皇様も感心しておいでです」
と同じ手紙に記しています。
在京中の親能や広元も、胸をなでおろしたのではないでしょうか。
騒動の間、親能は「里内裏の引っ越しに用いる幔幕の布を手配」するなど、自分の仕事に専念していました。
その後も親能はしばらく京都に滞在し、細かなことも数多く頼朝へ報告しています。
いくつか例を挙げましょう。
頼朝の代わりに京都の見張り
文治四年(1188年)4月10日、平家に協力的だった僧侶・良弘が3月30日に呼び戻されたことを知らせています。
根っからの平家派と言えましょう。
そのため、元暦二年(1185年)5月20日から阿波へ流罪となっていましたが、文治四年に許されたのでした。
さらに同年4月13日には六条殿で火事が起き、これも頼朝へ報告されています。
まさに京都における頼朝の耳目といったところ。
信頼の程は、職責の重さにも現れています。
同じく文治四年(1188年)5月、頼朝が多忙な際の書面には、親能が代理として判を押すことを認めました。親能が具合の悪いときには、平盛時がさらに代役を務めることも許可しています。
これにはキッカケとなる出来事がありました。
御家人の所領をめぐって複数人の権利者が絡み合い、どうにも判断しづらくなり、下手をすれば今後、他の土地に地頭を置けなくなる危険性がありました。
そこで頼朝自身は後で判断を変えられるよう、最初は親能に責任(花押)を任せたのです。
少々小狡いように見えますが、政争の場では致し方ないところでしょう。
また、この時期の親能は、六条殿の再建にも携わることになりました。
文治四年7月、領地ごとに割り当てられた再建事業のうち、頼朝の分については、親能が指示して行うことになっています。
こうした状況から察するに、頼朝にとって
・広元は鎌倉での政治の柱
・親能は京都での代理
といったイメージかもしれません。
※続きは【次のページへ】をclick!