小池栄子さん演じる北条政子が書き写した和歌を、息子の源実朝へさりげなく渡しておく――。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』ではそんなシーンがあり、和歌が重要な役割を果たしていることにお気づきの方も少なくないでしょう。
和歌は単に花鳥風月を詠むものではない。
心構えを詠むものである。
そんな風に説明され、第35回放送では、源頼朝の和歌も出てきています。
道すがら
富士の煙も
分かざりき
晴るる間もなき
空の景色に
富士の噴煙がわからぬほど雲が多かった――そんな情景を詠んだこの一首は『新古今和歌集』に収録。
「単なる景色ではなく、先行きの見えない不安を詠んだ」という解釈が登場しました。
かように、読み解き方によって世界が広がる和歌。
現代人にとって最も馴染み深いのが百人一首でしょうか。
『鎌倉殿の13人』に登場したり縁のある方の歌が収録されていて、そうした歌を知ると、当時の社会情勢なども浮かび上がってきます。
堅苦しく細かな解釈は抜きにして、わかりやすく補足を入れてみました。
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76 法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)
わたの原
漕ぎ出でて見れば
ひさかたの
雲居にまがふ
沖つ白波
【意訳】広々とした大海原に漕ぎ出してずっと遠くを見渡してみれば、空の白い雲と見わけがつかぬの白波が立っている
藤原氏長者として君臨した忠通。
対立した相手の頼長は【保元の乱】で首に矢を受けて亡くなりました。
争乱が起きたのは、保元元年(1156年)7月のこと。
このあたりから世の変貌が見えてきます。
保元の乱はまるで平安時代の関ヶ原 ゆえに対立関係を把握すればスッキリわかる
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77 崇徳院
瀬をはやみ
岩にせかるる
滝川の
われても末に
逢はむとぞ思ふ
【意訳】流れの早い瀬川の流れは、別れても岩にせき止められた滝のようにひとつに戻る。いちどは別れてしまっても、また流れがひとつになるように、またあなたにお会いしたいと思います
読みやすくロマンチックで、人気のある一首。
激流が割れる様が感情の激しさを思わせます。
作者の崇徳院は【保元の乱】に敗れ、讃岐国へ配流となりました。
崇徳天皇の最期があまりにも痛々しい~その正体は最高の歌人か最強の怨霊か
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そのことを恨み、日本国の大魔王となったいう伝説が生まれ、2012年大河ドラマ『平清盛』では井浦新さんが鬼気迫る演技を見せています。
しかし、こうしたイメージは『保元物語』はじめとするフィクションでの誇張があるようです。
彼に勝利した後白河院が祟りを恐れ、手厚く供養したことも関係しています。
77番のこの一首が【保元の乱】で追放された崇徳院。
そして99番と100番は【承久の乱】で追放された後鳥羽院と順徳院。
百人一首はそんな歴史の流れを追うことができす。
頼朝はなぜ義経のやらかしを許せなかったか? 軽視はできない安徳天皇の怨霊
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86 西行法師
なげけとて
月やは物を
思はする
かこち顔なる
わが涙かな
【意訳】「嘆け」と月が私に物思いをさせるているのか? いや、ちがう。本当は恋のせいなのに、まるで月のせいであるとばかりにこぼれ落ちる私の涙よ。
俗名は佐藤義清。
北面の武士として鳥羽院に仕えました。
平清盛と同世代であり、同僚であった期間もあります。
平安時代の名僧・西行法師「ブッダと同日に死ぬ」と詠み一日ズレる?
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なぜ平清盛は平家の栄華を極めながらすぐに衰退させてしまったのか
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対照的な生き方ながら、時代の変革者として名を残した二人です。
91 後京極摂政前太政大臣(九条良経※兼実の子)
きりぎりす
鳴くや霜夜の
さむしろに
衣かたしき
ひとりかも寝む
【意訳】こおろぎの鳴く声がしきりとする、そんな霜の降る寒い夜。筵(むしろ)の上に衣の片袖を敷いて、私はたった一人で寂しく寝ることになるのか。
寂しい晩秋の夜を思わせる寂しい歌です。
九条良経は兼実の子であり、和歌や漢詩をよく詠む、才知溢れる人物でした。
しかし、38歳の若さで急死してしまい、父を嘆かせたものです。
作者にそんなつもりはなかったとは思いますが、苦悩が何かと多い父・兼実の人生を思い出しつつ読むと、えもいわれぬ寂寥感が増します。
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92 二条院讃岐(源頼政の娘)
わが袖は
潮干に見えぬ
沖の石の
人こそしらね
かわくまもなし
【意訳】私の袖はまるで潮が引いたときですら水面に見えない、沖の石のようなもの。他の人は知らないだろうけれど、いつも涙に濡れていて乾く間もない。
激しい恋でいつも泣いている。そんな情熱的な恋の歌です。
二条天皇に仕えた讃岐の父は、以仁王とともに挙兵し散った源頼政です。
老いてなお兵を挙げた父のように、娘の讃岐も情熱的であったのかと思わせます。
93 鎌倉右大臣(源実朝)
世の中は
つねにもがもな
なぎさこぐ
あまの小舟の
綱手かなしも
【意訳】世の中よ、いつまでも変わらないでいて欲しい。渚に沿って、漁師が漕小舟をこいでゆく。その綱を見ていると、胸にこみあげてくるものがある。
正岡子規は『歌詠みに与ふる書』で実朝を絶賛しています。
「柿本人麻呂のあとの和歌詠みといえばなんといっても源実朝である、まだ三十にもならぬうちに命を散らしながら、こんなに完成度が高いとは素晴らしい」
子規の好みもあるでしょう。
あるいは、明治以降の鎌倉が東京から近く、歴史の香りある都として好まれてきた時代背景も感じさせます。
鎌倉は近代文人が愛した街でもありました。
海で船を漕ぐ漁師。そしてその姿を歌に詠む実朝。まるで絵のように人の心を打つ歌です。
その悲しく短い命とともに輝く一首といえます。
素朴で、そこに住む人々を愛する鎌倉殿。柿澤勇人さんがこの歌を詠む姿を胸に浮かべると、感慨深いものがあります。
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94 参議雅経(飛鳥井雅経)
み吉野の
山の秋風
さ夜ふけて
ふるさと寒く
衣うつなり
【意訳】奈良の吉野に山の秋風が吹いている。夜が更けてくると冷えてきて、砧で衣を打つ音が身に染みるものだ。
『鎌倉殿の13人』で、まるで疫病神のような扱いであった源行家。
義円、木曾義仲、源義経と、彼に関わる者は次から次へと不幸に見舞われます。
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この飛鳥井雅経の父・難波頼経も、実は「源行家被害者の会」メンバーの一人と言えるかもしれません。
『鎌倉殿の13人』では、三浦義村が皮肉げに「戦を知らない連中が義経を支持している」と語りましたが、頼経はその典型。
【壇ノ浦の戦い】のあと、京都に凱旋を果たした義経を熱狂的に支持し、義経ともども、鎌倉に対抗心を見せる行家の手駒となりました。
これが鎌倉の逆鱗に触れ、文治元年(1185年)には刑部卿を解官、安房国に配流に。
そのあとも義経を支持し続け、文治元年(1189年)、今度は伊豆国へ配流となります。
そんな父に連座し、雅経も鎌倉へ下向しました。
頼朝は和歌と蹴鞠の才能を気に入りって、雅経を猶子とし、大江広元の娘を正室に迎えさせてます。
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頼家と実朝も深く親交を結びました。
建久8年(1197年)に罪を許され、頼朝から渡された贈り物と京都へ戻ると、後鳥羽院に和歌の才を愛され、鎌倉にもしばしば下向しています。
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