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【鎌倉殿の13人と百人一首】
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95 前大僧正慈円
おほけなく
うき世の民に
おほふかな
わが立つ杣(そま)に
墨染の袖
【意訳】身のほど知らずと言われるかもしれないが、この苦しく悲しみに満ちた世の人々の上に、比叡山に出家したわが墨染の袖を被いかけよう。
この歌を詠んだ時、慈円は20代後半であったと推測されています。
その若さで比叡山において、多くの民を救済しようと詠んだのです。
九条兼実の弟として、名門に生まれた作者ならではの気負いがあります。
四度天台座主となり、後鳥羽院の寵愛を受けた慈円。若くしてこうも気宇壮大であったと示すべく、百人一首に採用されたと思わせる歌です。
摂関家出身の高僧・慈円が「武者の世」を嘆きながら後鳥羽院に重宝された理由
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96 入道前太政大臣(西園寺公経)
花さそふ
嵐の庭の
雪ならで
ふりゆくものは
わが身なりけり
【意訳】嵐の庭で吹き散らされる桜の花はまるで雪のようだ。こうして古(ふ)りゆくものとは、実は我が身なのだな。
西園寺公経は『鎌倉殿の13人』には出ていません。
しかし出ていてもおかしくはないほどで、例えば頼朝は、姉妹である坊門姫を大事にしていて、坊門姫と一条能保の間にできた姪・全子の夫が、この公経です。
頼朝にとって義理の甥にあたります。
そのため鎌倉幕府と近しい公卿でした。
実朝死後、源氏将軍が断絶すると、外孫・三寅(のちの藤原頼経)を四代将軍とすべく運動します。
【承久の乱】の際は事前に朝廷の動向を鎌倉に流し情報戦に貢献。乱にあたっては後鳥羽院に幽閉されるものの、幕府勝利により解放。出世街道を歩むこととなります。
桜のように散るどころか、実は世の流れに乗り切った人物といえます。
97 権中納言定家(藤原定家)
来ぬ人を
松帆の浦の
夕凪に
焼くやもしほの
身もこがれつつ
【意訳】街に待ってもあなたは来ない。そんなあの人を待つ私の心は、まるで松帆の浦の夕凪のに焼く藻塩。身も心も焦げてしまいそう。
百人一首の選者である藤原定家。そんな定家も激動の時代を生きました。
若い頃から病弱で、仕える後鳥羽院とも諍いを起こしてしまう。
九条兼実や権藤原兼子とも交流がありました。
『鎌倉殿の13人』で描かれる世界の中に、彼は生きているのです。
彼にとって【承久の乱】とは、何かと対立していた後鳥羽院が失脚した好機でした。あの乱がなければここまで出世できなかったと語っているほど。
激動に翻弄されながら、彼なりの道を見出していた歌人です。
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98 従二位家隆(藤原家隆)
風そよぐ
ならの小川の
夕ぐれは
みそぎぞ夏の
しるしなりける
【意訳】風がそよそよと吹いて、楢(なら)の葉を揺らす。ならの小川(御手洗川)の夕暮れは、もう秋が来たようだが、 川辺の禊祓(みそぎはらい、水無月祓)を見ると夏であるとわかる。
晩成の歌人です。
後鳥羽院は四十を過ぎて伸びてきたその才能を慈しみました。
「家隆卿は若い頃はさほどでもなかったが、建久のころより実によい歌を詠むようになったものだ」
そう感嘆していたのです。
性格的にも穏やかでそつなく謙虚。後鳥羽院が流罪になったあとも交流を続けました。八十になっても歌を詠む気力を失わなかったとされます。
若い頃から才能があり、時にエキセントリック。後鳥羽院から不興を買うこともあった定家。
晩成であり穏やか。流罪後の後鳥羽院にとって心の支えとなった家隆。
彼は藤原定家と対照的なのです。
99 後鳥羽院
人もをし
人も恨めし
あぢきなく
世を思ふゆゑに
もの思ふ身は
【意訳】ある時は人を愛おしい思い、またある時は恨めしいとも思われる。つまらぬこの世ゆえに、あれこれと物思いにふけってしまうこの私よ。
この歌は建暦2年(1212年)の作とされます。
【承久の乱】まであと9年。
達観しながら詠む後鳥羽院の姿は、『鎌倉殿の13人』を見ていれば想像ができるかと思います。
ドラマでは尾上松也さんがあまりに聡明な帝王を演じています。賢すぎるがゆえに、他が愚鈍に見えてしまう。そんな気怠さが漂っているのです。
愛おしく、恨めしい人の姿として、ドラマの描写ならば源実朝が思い浮かぶかもしれません。
後鳥羽院は実朝を、失われた三種の神の剣に見立てるよう、慈円に助言されます。そして後鳥羽院なりに、実朝に何かと目をかけているのです。
しかし、実朝は柔弱な貴公子ではなく、気骨ある鎌倉殿であったと近年の研究では見直されつつあります。
「なんだあの小僧、案外骨があるではないか……」
そう眉を顰める後鳥羽院が詠む歌として、これはなかなかふさわしいのではないでしょうか。
この歌を詠んだ状況は不明ですので、ドラマではどう解釈してもよいのです。
100 順徳院
ももしきや
古き軒端の
しのぶにも
なほあまりある
昔なりけり
【意訳】嗚呼、宮中のる古びた軒から垂れ下がっている「忍ぶ草」を見るにつけても、往時のことがしのばれる。しのんでもなお余りある、しのびつくせないほどものは、古きよき時代よ。
天智天皇と持統天皇から始まった百人一首は、【承久の乱】に敗れ、流罪となった崇徳院と順徳院の歌で終わりを迎えます。
古きよき時代とは、天皇が治めていた時代です。慈円が『愚管抄』で書いたように「ムサノ世」(武者の世)が到来してしまったのです。
【承久の乱】で出世できたと述懐した定家。彼は鎌倉幕府を慮り、『新勅撰集』には後鳥羽院と順徳院の歌を外しました。しかし、あくまで私的なものであるとして『百人一首』には残したのです。
定家は歌人として、世の変転を嘆き、残したのでした。
天皇の御代から、武者の世へ
かるた遊びやフィクションでおなじみの百人一首。
作者や時代背景を辿ると、当時の社会や政治情勢も浮かんできます。
『鎌倉殿の13人』は、順徳院が嘆き悲しむ古きよき時代を破壊する物語と言えるでしょうか。
百人一首の背景には、劇中で見られた陰惨で血生臭い時代の流れがありました。
ドラマの後に百人一首を読み返し、実朝や後鳥羽院に思いを馳せるのもよいかもしれません。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
糸井通浩『小倉百人一首を学ぶ人のために』(→amazon)
平田澄子・新川雅朋編『小倉百人一首 ―みやびとあそび―』(→amazon)
他