土御門天皇

土御門天皇/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

無関係なのに流罪にされた~土御門上皇はなぜ承久の乱後に土佐へ流されたのか

できたばかりの幕府を揺るがしかねない――鎌倉時代の一大事件と言えば【承久の乱】でしょう。

一般的には「後鳥羽上皇が幕府を滅ぼすために起こした戦」としてよく知られ、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』ではクライマックスとなった場面。

息子の順徳上皇が賛同していたことでも知られ、その兄・土御門上皇(つちみかど)も健在でした。

しかし、土御門上皇は計画を知らされていなかったとされます。

それでいて乱後は土佐への流刑。

何がどうしてそうなったのか?

幕府と朝廷の関係を考察しながら、寛喜3年(1231年)10月11日に亡くなられた土御門上皇の生涯を振り返ってみましょう。

 


土御門天皇 母方祖父が清盛の義弟

土御門天皇は建久六年(1195年)11月1日に誕生しました。

父は前述の通り後鳥羽天皇。

母は内大臣・源通親の養女である源在子(みなもとのありこ/ざいし)、後の承明門院です。

後鳥羽天皇(後鳥羽上皇)/wikipediaより引用

ややこしいことに、母の在子は源姓ですが、もともとは平氏の末裔でした。

在子の実父で天台宗僧侶の能円(のうえん)が、平清盛の正室・平時子の異母弟だったのです。

少し混乱しますよね。

母系をいったん図にしておきますと。

【土御門上皇の母方系図】

祖父・能円(平時子の異母弟)と祖母・藤原範子(藤原南家)

母・源在子(源通親の養女となる)

土御門上皇(在子と後鳥羽天皇の間に生誕)

母の在子はどうして後鳥羽上皇に気に入られたのか。

ちょっとややこしくなるので詳細は省きますが、祖父の能円が平家の没落に伴い失速していく一方、祖母の藤原範子は、尊成親王(後鳥羽天皇)の乳母を務めたことで京都に滞在。

範子が源通親と再婚すると、娘の在子は宮仕えに出る機会を得て、後鳥羽天皇の寵愛を受けたとされます。

後鳥羽天皇と在子は乳兄弟という間柄になりますから、もともと気心が知れた間柄だったのでしょう。

そして土御門天皇が生まれた……というわけです。

ちなみに能円は”天皇の祖父”になったものの、復権できず、そのまま静かに世を去っています。

 


静かに即位し 静かに譲位

土御門天皇は父の意向により、建久九年(1198年)に4歳で即位しました。

もちろん、実際の政治は後鳥羽上皇が執り行っています。

皇位についていた頃の土御門天皇については、あまりエピソードがありません。

その事自体が、性格を表しているのかもしれませんね。

そして約12年後の承元四年(1210年)11月25日、後鳥羽上皇の命令により、弟の順徳天皇に譲位することになりました。

後鳥羽上皇からみて、土御門天皇は「おとなしすぎて、幕府とやっていけるかどうか心配」だった……といわれています。

なぜ、そんな風に思ったのか?

皇位についていた頃の鎌倉将軍を確認しますと、

源頼朝:建久三年(1192年)7月12日~建久十年(1199年)1月13日

源頼家:建仁二年(1202年)7月22日~建仁三年(1203年)9月7日

源実朝:建仁三年(1203年)9月7日~建保七年(1219年)1月27日

まだ実朝が暗殺される建保7年(1219年)以前のことで、源氏が三代続いていました。

確かに天皇があまりにおとなしいタイプだと、幕府にぐいぐい押されてしまう心配があったでしょう。

特に後鳥羽上皇は、自身が怪力自慢のエピソードを持つようなイケイケの御仁です。

※以下は後鳥羽上皇の関連記事となります

後鳥羽上皇
なぜ後鳥羽上皇は幕府との対決を選んだ?最期は隠岐に散った生涯60年

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そこでこんな風に思ったのではないでしょうか?

◆後鳥羽上皇

「為仁(土御門天皇)は、朝廷と幕府の戦に賛同しないだろう。

ならば早めに、もっと血気盛んな弟の守成(順徳天皇)に皇位を継がせておこう。

為仁が関与しなければ、万が一のことがあっても、その息子に皇位が継がれていくだろう」

あくまで私見ですが、こんな算段をつけていたのかもしれません。

 


対幕府を考えての順徳天皇か

土御門天皇は承元二年(1208年)頃から宮中の女性と関係を持っていたらしく、承元三年(1209年)に道仁法親王が誕生。

1210年にも複数の子女に恵まれていて、後継ぎの心配はおそらくありませんでした。

後鳥羽上皇がプッシュした順徳天皇は、たしかに土御門天皇に比べて「気性が激しかった」といわれているものの、文化的な素養も強く持っていました。

『禁秘抄』という有職故実の本を記したり、藤原定家に師事して和歌を学んだり。

他ならぬ後鳥羽上皇も中世屈指の歌人であり、千五百番歌合(せんごひゃくばんうたあわせ)や新古今和歌集の編纂を命じるなど、和歌への情熱は並々ならぬものがあります。

時系列が前後しますが、後鳥羽上皇は隠岐へ流された後も、

「これこそが本当の新古今和歌集だ!」

と言って、自ら編纂を重ねたほどです。現代では”隠岐本”と呼ばれていますね。

ですので、歌好きの源実朝も、和歌を通じて朝幕間の良好な関係を築くこともできたのかもしれません。

また、最近は「後鳥羽上皇の目的は北条義時討伐であり、倒幕ではなかった」という説も出始めています。

北条義時
北条義時が頼朝を支え鎌倉幕府を立ち上げ 殺伐とした世で生き残った生涯62年

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同説を前提にすると、首尾よく義時の排除が成功していた場合、後鳥羽上皇は実朝や御家人たちを懐柔する形で、鎌倉幕府を存続させるつもりだったと考えられます。

そのとき、朝廷側が強気に出たほうが何かとやりやすくなる。

ゆえに順徳天皇のほうが性格的に向いていたであろう……と想像できますね。

弟に皇位が継がれた場合、兄(この場合は土御門上皇)は政治に関われなくなりますが、和歌を通して実朝と良い関係を築くこともできたでしょう。

いずれにせよ承元四年(1210年)に土御門天皇が譲位したことで、徐々に後鳥羽上皇の蜂起へ近づいていくワケです。

それが約10年後、承久3年(1221年)【承久の乱】でした。

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