大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第21回放送から、北条義時の弟が登場しました。
その名も北条時連――。
瀬戸康史さん演じる北条時政の子供であり、主人公の義時より年齢的には一回り小さい弟となります。
後に北条時房と名乗ったことから、本稿でも「時房」で統一させていただきますが、さて、この方いったいどんな人物なのか?
そう問うても、即座に「知らん」とつっこまれそうです。
義時や時政、政子らの存在感が大き過ぎるせいでしょうが、実はこの時房、北条家希望の星・北条泰時をよく助け、鎌倉幕府を安定させた功労者だったりします。
史実の生涯を振り返ってみましょう。
義時と政範に挟まれた北条時房
北条時房は、北条家でどんなポジションにいたのか?
父の北条時政に子が多すぎるため、なかなか混乱するところだったりします。
まずは男子だけ並べてみましょう。
すぐに戦死してしまった長男の北条宗時と主人公の北条義時、そして二人の間にいる北条政子。
『鎌倉殿の13人』での彼らは、母が同じ設定とされています(史実の政子母は諸説あり)。
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本稿の主人公である北条時房の母は不明です。
時房にとって問題なのは、その下に生まれた四男の北条政範が、宮沢りえさん演じるりく(牧の方)の息子であり、そのためドラマでも北条家の跡取りとして猛プッシュされていたことでしょう。
幼い頃から非常に微妙なポジションだったと言えます。
初陣は15才で奥州合戦
そんな北条時房の生まれは、安元元年(1175年)。
『鎌倉殿の13人』では、源頼朝が北条家に匿われた頃にあたります。
ドラマの初回放送で乳母に抱かれていた北条家の赤ん坊が登場しましたが、あの子が時房ですね。
父の北条時政は、そんな赤子が生まれたばかりなのに、若い妻(りく)を京都から連れてきたため、義時や政子らに呆れられていました。
あの赤ん坊が成人して時房となり、ドラマの第21回放送に出てきました。
史実の時房は元服後の文治5年(1189年)、義経の逃亡に端を発した【奥州合戦】で初陣を飾ります。
このとき数えで15才。
【十三人の合議制】の中で北条義時だけが一世代若いと指摘されますが、時房はその義時よりもさらに一世代若く、源平合戦こと【治承・寿永の乱】を経験していない世代です。
大きな戦乱は収まっていく時代ですので、現代から見れば幸せ……と、ならないのは前述の説明通り。
兄・義時は江間家の跡取りになった。
北条の後継者は母の身分からして、弟になるようだ。
俺はどうするのか?
そんな迷いはあったことでしょう。
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一方で時房だけでなく兄の義時も先々どうなることか、曖昧な門出の二人。
時代が動き始めたのは奥州合戦から約10年後の建久10年(1199年)のことです。
この年の正月、源頼朝が急死しました。
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北条と比企の争いを生き抜く
頼朝が亡くなり、跡を継いだのは政子との間の息子・源頼家でした。
このとき18才で、叔父にあたる北条時房は24才。
二人は歳が近く、母や叔父(義時)よりも時房の方が話しやすく頼りになる存在だったでしょう。
実際、時房は蹴鞠の腕も買われ、頼家の側近を務めていました。
ドラマ序盤では、義時世代の武士たちが「狩猟」を娯楽とするシーンがありましたが、時房や頼家などの下の世代は京の影響を受け、坂東の文化も様変わりしつつあったのです。
しかし頼家の母である北条政子、叔父である北条義時からすると、彼らはあまりに幼く若く思えた。
ゆえに政子の主導で【十三人の合議制】による政治システムが整えられ、同時にそれは別の問題も生み出しました。
一言でいえば権力闘争ですね。
将軍は頼家であり、その統治においては、乳母を務めた比企一族が台頭。
結果、北条と比企の間で争いが生じてしまい、血で血を洗う凄惨な事態へ発展してゆきます。
源平合戦のような大乱こそ起きてはいませんが、それよりもっとドロドロした身内争いが激化していったのです。
◆北条vs比企
このとき時房はどうしたか?
彼自身は頼家の側近であり、同輩にあたる比企一門とも付き合いがありました。
ゆえに比企サイドに流れるかと思いきや、そもそもの生まれである北条氏の中で行動するうちに、比企との関係を解消せざるを得なくなります。
兄・義時は、比企氏出身である正室・姫の前と離縁。
時房も比企氏の友人たちと苦い別れを経験したことでしょう。
そして何より、甥であり主君でもあった頼家が、暗殺されるという最悪の結末を迎えます。
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結果、時房の姉である阿波局が乳母を務め、北条一族が推してきた源実朝が新たな鎌倉殿となります。
その様を見つめる時房の内心は、複雑なものがあったでしょう。
選ぶのは父か? 姉と兄か?
源頼家の死により、その側近たちも多くが悲運の最期を辿っています。
比企能員とその一族。
源頼家の妻子。
そもそもは「鎌倉本体の武士」と讃えられた梶原景時が追い詰められていた場面で、頼家がそのことを見逃したことが自身の命を縮めたとすら言えるでしょう。
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こうした酷い粛清を経て、鎌倉幕府でも抜きん出た力を得たのが北条氏ですが、他ならぬその北条氏でも内紛が起こります。
中心にいたのが牧の方(りく)です。
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時房や義時の父である北条時政よりずっと若く、子沢山の彼女には北条政範という男子がいて、北条氏の後継者と目されていました。
ゆえに兄である時房の心中は複雑なところ……とは先程重ねて申した通りですが、意外な結末を迎えます。
元久元年(1204年)、頼家亡きあと、鎌倉殿は弟・源実朝が三代目となっていました。
その実朝の正室を迎えるべく、政範が京都へ出向きます。
二人の兄をさしおいて上洛したことからも、どれほど政範が期待されていたかわかりますが、なんとこの京都への旅で、政範が病に倒れ、急死したのです。
我が子を北条家の跡取りとする計画は頓挫――牧の方(りく)にとってはこれ以上ない悲劇でした。
そしてこの一件が遠因となったのか。さらなる悲惨な事態が起きてしまいます。
発端は元久2年(1205年)11月、畠山重忠の子・畠山重保と、平賀朝雅の言い争いでした。
畠山重保にしても、平賀朝雅にしても、時房との関係は浅くありません。
彼らの妻が時房の姉妹であり、義理の兄弟にあたるです。
本来であれば、こうした親戚関係が縁となって事は深刻化せず、騒ぎは収束するところでしょう。
しかし、そうはなりませんでした。
父の北条時政と、義母の牧の方(りく)がとんでもないことを言い出します。
「畠山重忠に反乱の疑いがある! ヤツらを討ち果たせ!」
あろうことか北条義時と北条時房に、そんな命令がくだされたのです。
むろん義時も時房も猛反対。
「重忠には忠義があるではないですか! 鎌倉殿にもずっと忠誠を尽くしています」
しかも兄弟二人だけでなく、時政にとっても浅からぬ関係がありました。
「我々兄弟から見れば、彼は“ちえ”の婿です。父上にとっても義理の息子ではないですか。それを殺してしまえば後悔しますよ!」
かくして義時と時房は、父の前から立ち去るのですが、追いかけるようにして牧の方(りく)のきょうだいにあたる大岡時親が義時邸にやって来ました。
そして、牧の方からの言伝を二人に伝えます。
「私が義理の母だから、父の言うことに逆らうのですか?」
この一言に逆らえず、追い詰められていく義時と時房。
結果、二人は義兄弟である重忠と、甥である重保を討ち果たしたのでした。
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