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【北条時房】
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北条vs比企
鎌倉は北条と比企の争いへ――このとき北条時房はどうしたか?
彼自身は頼家の側近であり、同輩にあたる比企一門とも付き合いがありました。
ゆえに比企サイドに流れるかと思いきや、そもそもの生まれである北条氏の中で行動するうちに、比企との関係を解消せざるを得なくなります。
時房も比企氏の友人たちと苦い別れを経験したことでしょう。
そして何より、甥であり主君でもあった頼家が、暗殺されるという最悪の結末を迎えます。
結果、時房の姉である阿波局が乳母を務め、北条一族が推してきた源実朝が新たな鎌倉殿となります。
その様を見つめる時房の内心は、複雑なものがあったでしょう。
弟の北条政範が京都で急死
源頼家の死により、その側近たちも多くが悲運の最期を辿っています。
比企能員とその一族。
源頼家の妻子。
そもそもは「鎌倉本体の武士」と讃えられた梶原景時が追い詰められていた場面で、頼家がそのことを見逃したことが自身の命を縮めたとすら言えるでしょう。
こうした酷い粛清を経て、鎌倉幕府でも抜きん出た力を得たのが北条氏ですが、他ならぬその北条氏でも内紛が起こります。
中心にいたのが牧の方(りく)です。
時房や義時の父である北条時政よりずっと若く、子沢山の彼女には北条政範という男子がいて、北条氏の後継者と目されていました。
ゆえに兄である時房の心中は複雑なところ……とは先程重ねて申した通りですが、意外な結末を迎えます。
元久元年(1204年)、頼家亡きあと、鎌倉殿は弟・源実朝が三代目となっていました。
その実朝の正室を迎えるべく、政範が京都へ出向きます。
二人の兄をさしおいて上洛したことからも、どれほど政範が期待されていたかわかりますが、なんとこの京都への旅で、政範が病に倒れ、急死したのです。
我が子を北条家の跡取りとする計画は頓挫――牧の方(りく)にとってはこれ以上ない悲劇でした。
そしてこの一件が遠因となったのか。さらなる悲惨な事態へ。
畠山重忠の死
発端は元久2年(1205年)11月、畠山重忠の子・畠山重保と、平賀朝雅の言い争いでした。
畠山重保にしても、平賀朝雅にしても、時房との関係は浅くありません。
彼らの妻が時房の姉妹であり、義理の兄弟にあたるです。
本来であれば、こうした親戚関係が縁となって事は深刻化せず、騒ぎは収束するところでしょう。
しかし、そうはなりませんでした。
父の北条時政と、義母の牧の方(りく)がとんでもないことを言い出します。
「畠山重忠に反乱の疑いがある! ヤツらを討ち果たせ!」
あろうことか北条義時と北条時房に、そんな命令がくだされたのです。
むろん義時も時房も猛反対。
「重忠には忠義があるではないですか! 鎌倉殿にもずっと忠誠を尽くしています」
しかも兄弟二人だけでなく、時政にとっても浅からぬ関係がありました。
「我々兄弟から見れば、彼は“ちえ”の婿です。父上にとっても義理の息子ではないですか。それを殺してしまえば後悔しますよ!」
かくして義時と時房は、父の前から立ち去るのですが、追いかけるようにして牧の方(りく)のきょうだいにあたる大岡時親が義時邸にやって来ました。
そして、牧の方からの言伝を二人に伝えます。
「私が義理の母だから、父の言うことに逆らうのですか?」
この一言に逆らえず、追い詰められていく義時と時房。
結果、二人は義兄弟である重忠と、甥である重保を討ち果たしたのでした。
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