北条時房

和田義盛への使いに向かう北条時房の図/国立国会図書館蔵

源平・鎌倉・室町

義時の弟・北条時房~鎌倉殿の13人“トキューサ”は幕府を支えた名将だった?

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姉妹三人の夫や息子ことごとく

重忠らの首を持ち帰った義時と時房は、父・時政に怒りを爆発させます。

「何が謀反だ! 畠山勢は単独で釈明に向かっていたじゃないか! 義兄弟の首を見たら、もう涙が止まらない!」

そう訴える我が子の前で、言葉を失うしかない時政。

さらに悲劇は続きます。

重忠と付き合いの深い三浦義村が行動に移したのです。

「事件に関わったのは稲毛重成の一党……斬るしかねぇ」

実は、稲毛重成の亡妻もまた、義時と時房にとっては姉妹にあたる女性であり、『鎌倉殿の13人』では“あき”として登場。

彼女の夫と甥も、今度は義村によって討ち果たされてしまったのです。

もはや何が何だかワケわからないかもしれません。

あらためて、姻戚関係で彼らを結んでいた、北条時房の姉妹(時政の娘)をまとめておきましょう。

◆ちえ・畠山重忠の妻

→息子の重保が、妹の夫である平賀朝雅と口論となり、夫と息子は、時政と牧の方の命令で誅殺される

◆りくの娘・平賀朝雅の妻

→姉の子で甥でもある畠山重保と夫が言い争い。畠山親子が殺害された後、北条政子と義時の命令を受けた山内首藤通基により、夫が誅殺される

◆あき・稲毛重成の妻

→夫と息子が三浦義村に殺害される

※名前は『鎌倉殿の13人』の設定を使用

要はこの争い、時房の目から見て、姉妹の夫と息子(甥)たちが、ことごとく殺害されていくというおぞましい結果となったのです。

姉妹の家族が蹂躙される様を見て、時房の胸には暗い思いがよぎったことでしょう。

もう、親族同士で争うなんてごめんだ……そう悟ったとしても不思議はありません。

時政はやりすぎました。

坂東武士の鑑」である畠山重忠惨殺に怒った御家人たちは時政を見限り、代わって政子と義時が権力を掌握。

絵・小久ヒロ

時政は中央から追われます。

この一件は【牧氏事件】とも呼ばれ、まとめると、以下のような世代交代が起きたと言えます。

◆源実朝擁立までの北条家は時政・政子・義時の三頭体制

◆牧氏事件後に政子・義時・時房の三頭体制へ

時房は、姉と兄が頼りにするに足る政治家として成長し、彼自身の存在は目立たないものの重要なサポート役を果たしていたと考えられるのです。

この後、建暦3年(1213年)には和田義盛と争う【和田合戦】に従軍。

建保7年(1219年)、源実朝が暗殺されると、時房は朝廷と後継者をめぐる交渉を担い、三寅(頼経)を迎えることになりました。

ただし、この頼経が将軍となるのは政子の死後のこと。

実質的な4代目鎌倉殿として、政子は政治を担い続けました。弟である義時と時房は、尼将軍である政子を支えたのです。

 


承久の乱

血で血を洗う時は流れ、次第に北条中心の政治体制が整っていく中、北条時房にとっても頼りになる人物が育ちつつありました。

兄・義時の子である北条泰時です。

和田合戦の北条泰時(歌川国芳作)/国立国会図書館蔵

寿永2年(1183年)に生まれた泰時は、時房と年齢も近く、いわば同世代の人物として扱われます。

泰時は温厚な人格者でした。

しかし争いが止んだワケではありません。

鎌倉武士にとっては未曾有の事態となる朝廷との争乱【承久の乱】が勃発するのです。

承久3年(1221年)5月15日、後鳥羽上皇は義時を追討し、さらには全国の守護・地頭を自らの下に置くための【宣旨・院宣】を出しました。

後鳥羽天皇(後鳥羽上皇)/wikipediaより引用

そこで北条政子が御家人たちを鼓舞したというのは有名な話ですね。

兵の集結に成功した幕府は、まず泰時が兵を率いて京都へ向かい、同日、北条時房と義時の子・北条朝時も後を追いました。

義時は鎌倉に留まり、戦略を見据える役目です。

一度、幕府軍が立ち上がると、まとまりのない朝廷軍は瞬く間に崩れたとされますが、それまでの経緯の中で、泰時軍も、時房軍も、大苦戦を強いられています。

防衛線は守る側が有利であり、特に鎌倉からの長い行軍を経て、渡河は難しい局面。

橋が破壊され、盾を構えた守備勢相手に、幕府軍は苦しめられたのです。

急拵えの筏を作り、浅瀬を渡る――戦いは鎌倉方の圧勝とは言えず、犠牲も多く出ています。

しかも将は【治承・寿永の乱】での実戦経験がない時房と泰時でした。

『鎌倉殿の13人』では、戦慣れしていない二人がそれでも川を渡ることを決め、泰時の従者である平盛綱の身体に矢が刺さったシーンは非常に印象的な場面ともなりました。

なお【承久の乱】の戦後処理は、政子と義時が行っています。

最後の大乱が終わり、鎌倉に平和は訪れたのでしょうか?

 


泰時を支え抜く

【治承・寿永の乱】のあと、勝利を収めた源氏の行く末を思い出してみましょう。

平家を瞬く間に滅亡へという大活躍をしたにも関わらず、源義経は兄の頼朝と対立し、ついには奥州平泉で自刃に追い込まれました。

源義経/wikipediaより引用

強大な敵と戦う最中は一致団結していたのに、敵がいなくなった途端、味方同士で争ってしまう。

しかも源氏の兄弟たちがいなくなると、今度は御家人たちの間で薄暗い権力闘争が頻発した。

そんな過去があったばかりで、北条時房と北条泰時の叔父甥はどうしたか?

実は【承久の乱】で最も活躍したこの二人はライバルと目されていたとされます。

20年前の状況を考えると危険視されてもおかしくはないでしょう。

しかし二人は違いました。

協力して政務を取り合い、争うことはなかったのです。

【承久の乱】から3年後の元仁元年(1224年)に北条義時が死去。

その翌年の嘉禄元年(1225年)には尼将軍こと北条政子も亡くなるのですが、彼女は死の前に三浦義村の協力を得て、北条泰時を3代目執権としました。

泰時は古代中国の聖なる統治者・堯舜に例えられるほどの仁政を実現し、幕府安泰の道を築きます。

その隣には、名君を支える時房の姿もありました。

承久の乱から約20年後の延応2年(1240年)、時房が死去。享年66でした。

泰時は、それから2年後の仁治3年(1242年)にこの世を去ります。

北条義時の弟である北条時房と、義時の子である北条泰時。

二人の協力により、鎌倉幕府は安泰となりました。

彼らは以前の世代のように争うことなく、協力することで新たな時代を築きました。

時房は、父・時政、姉・政子、兄・義時、そして甥・泰時を支え、そんな彼らが非常に目立つため、動向が追いにくい人物といえます。

しかし、その目立たないことこそが、彼の優れた政治家としての資質を示しているのではないでしょうか。

自らの功績を自慢するわけでもなく、じっと横から支える――そんな北条時房がいてこそ、北条政権が安定したのかもしれません。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』(→amazon
山本みなみ『史伝 北条政子』(→amazon
岩田慎平『北条義時 鎌倉殿を補佐した二代目執権』(→amazon
岡田清一『北条義時: これ運命の縮まるべき端か』(→amazon

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