矢部禅尼

絵・小久ヒロ

源平・鎌倉・室町

北条泰時の妻・矢部禅尼(初)の不思議な魅力 鎌倉殿の13人福地桃子

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で主人公・北条義時の盟友とされる三浦義村

この二人には、同時期に生まれた嫡男と娘がいて、親同士で結婚をほのめかすような話をしていました。

嫡男とは、坂口健太郎さんが演じる北条泰時であり、娘とはドラマで福地桃子さんが演じた初こと矢部禅尼です。

結論から申しますと、史実での二人は結婚します。

しかし、仲睦まじく生涯を添い遂げるようなこともなく、ワケもわからず離縁したかと思ったら、二人の間にできた息子が北条家を継ぎ、孫たちが第4代、第5代の執権職に就いてゆく。

一体どういうことなのか?

考えれば考えるほどモヤモヤしてくる、されど不思議な魅力のある女性・矢部禅尼(初)。

建長8年(1256年)4月10日は彼女の命日、その生涯を振り返ってみましょう。

 


三浦義村の子として生まれる

北条義時の子である金剛(北条泰時)は、寿永2年(1183年)生まれ。

一方、その妻となる初は文治3年(1187年)生まれとされます。

『鎌倉殿の13人』では、ほぼ同時期に生まれていたので、劇中の初は史実より若干早く生まれた設定に変更されていますね。

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そんな二人にとって運命の日となるのが、建久5年(1194年)2月2日でした。

この日、源頼朝が烏帽子親を務めて金剛(泰時)の元服の儀が行われると、許嫁も決められることになったのです。

相手は、北条と家格が同じ御家人――三浦義澄の孫娘から、初(矢部禅尼)が選ばれたのでした。

『鎌倉殿の13人』では、義村がこの縁談を強く望み、義時の愛妻である八重が初を育てていましたが、こちらもあくまでフィクションの設定です。

ただし、ドラマの義村が語っていたように、北条氏と三浦氏の家格が同じというのはその通りでしょう。

北条時政と三浦義澄は幼なじみでもあり、二人とも伊東祐親の娘を妻としていました。

彼らの子である北条義時と三浦義村は従兄弟の間柄。

泰時と初は、その子同士ですから、互いに申し分ない条件だったでしょう。

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それから8年後――頼朝の死を経て、源頼家が二代目鎌倉殿となった建仁2年(1202年)、泰時と初の婚儀が行われました。

翌建仁3年(1203年)には夫妻の間に男児(北条時氏)が誕生。

頼朝の死後、北条と比企が激しく争う最中でのことでした。

 


泰時の妻となるも謎めいた離縁

北条と三浦の夫妻――。

一見、何の不都合もないように見えますが、二人は、時期も経緯も理由も不明ながら離縁しているのです。

建暦2年(1212年)に泰時の二男・北条時実が生まれ、その母は後妻である安保実員の娘でした。

つまりは建仁3年(1203年)から建暦2年(1212年)の間に泰時と初は離別していました。

彼らは特に不仲だったという記録もなく、経緯は不明。

泰時と初の間に生まれた北条時氏が、その後、北条家を継いでいることも不可解といえます。

もしも母(初)に罪があれば、時氏が廃嫡されても不思議ではないでしょう。

三浦氏にしても、この離縁を契機に何らかの不興を被った形跡はなく、初(矢部禅尼)はその後、三浦一族の佐原盛連に嫁いで、3人の男子を産んでいます。

初(矢部禅尼)と佐原盛連の子である蘆名光盛は、会津蘆名氏の祖となりました。

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承久3年(1221年)の【承久の乱】で、初の夫である佐原盛連は、舅・三浦義村の配下として名を連ねています。

 


夫・盛連と子・時氏に先立たれて出家

承久の乱後、上洛した三浦義村は、政治活動を行いました。

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義村は、京都でも智謀を発揮。

藤原定家の日記『明月記』に、前漢の張良、陳平に例えてこう記されています。

義村八難六奇之謀略、不可思議者歟

義村の八難六奇の謀略、不可思議の者か。

しかし、その娘婿であり初の夫・佐原盛連は、義父・義村を支えるどころか、失態を犯してしまいます。

義父の権力を傘に着たのか。

それともストレスが溜まっていたのか。

嘉禄2年(1226年)、盛連は京都で酔っ払った挙句に傷害事件を起こし、「悪遠江守」と呼ばれるようになってしまうのです。

朝廷から疎まれ、数年間諸国を放浪すると、天福元年(1233年)、強引に上洛しようとして殺害されてしまいました。

夫の横死を受けた初は、法名「禅阿」として出家。

その後、三浦にある矢部郷に戻ったため「矢部禅尼」と呼ばれるようになります。

なお、彼女が出家する3年前の寛喜2年(1230年)、泰時との間に生まれた北条時氏は、28という若さで両親に先立ち、病死していました。

そして矢部禅尼を語る上で避けて通れないのが【宝治合戦】でしょう。

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