大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の舞台は、現代人がイメージするよりも、はるかに教育レベルの低かった時代です。
庶民はいわずもがな、武士の間でも「文字を読める者が珍しがられた」というぐらい。
そうなるとドラマに登場するキャラも力自慢系が多く、戦国時代のように参謀とか軍師イメージの頭脳派はいない……ような予感が湧いてきますが、ところがどっこい、います。
その名は上総広常(かずさ ひろつね)。
『鎌倉殿の13人』では佐藤浩市さんが演じる人物です。
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上総広常は“房総平氏”
上総広常は“房総平氏”という、房総半島の豪族でした。
桓武平氏の中で、上総・下総に根付いたとされる一族を指します。
「これは自称に過ぎず、桓武平氏とは関係ない地元の一族だ」という説もありますが、その真偽については今後の研究を待つとしましょう。
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広常の生年は不明です。
保元元年(1156年)に勃発した【保元の乱】で「源頼朝の父・源義朝に従って戦った」とされていますので、この時期には少なくとも元服を済ませていたはず。
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となると、おそらく1130年代後半~1140年代中頃あたりの生まれではないでしょうか。
続く【平治の乱】では、源義朝の長子・悪源太義平に従い、義平十七騎に数えられ、その後は平家に従っていました。
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しかし、父の上総常澄が亡くなると、広常と庶兄の上総常景・上総常茂との間で、上総氏の家督を巡る内紛が勃発。
いったんは年の順に常景が継いだものの、次兄の常茂が常景を殺害。
常茂は京都大番役を務めるなどして名実ともに当主となりました。
広常はそれに不満を抱き続けていたようで……。
平家ではなく源氏の力を借りよう
治承三年(1179年)11月、平家の有力家人・伊藤(藤原)忠清が上総介に任じられました。
これは上総氏にとっては侮辱ともいえる仕打ち。
さらに平家姻戚の藤原親政が下総・匝瑳(そうさ)郡に所領を持つなど、じわじわと脅威が迫ってくると、上総広常はこう考えるようになります。
「平家ではなく源氏の力を借りて力を強めよう」
そんな状況の最中、治承四年(1180年)8月に源頼朝が挙兵。
石橋山の戦いに敗れると、頼朝らは海を渡って房総半島へ落ち延びましたが当然諦めてはいません。
後に続いて安房へやってきた三浦氏などと合流し、頼朝は房総半島や関東の豪族たちに協力を求めます。
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このタイミングで、広常は同族の千葉常胤らとともに頼朝へ味方しました。
上総常茂の息子たちも父を見限って広常と共に頼朝軍へ加わったと言われています。
孤立化しつつある常茂は、その後も平家軍の一員として源頼朝・上総広常と敵対し続けました。
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結果、広常が勝ち、ようやく上総氏は広常のもとでまとまりを見せ始めました。
富士川の戦いで勝利を収めた後、すぐに上洛を考えていた頼朝に対し、広常らは進言します。
「常陸の佐竹氏が脅威になりえるので、これを討ち果たしてからのほうが良いでしょう」
前述の経緯を考えると、兄方の生き残りが息を吹き返す前に、しっかりと地元を固めておきたかったのでしょう。
当時は佐竹氏の当主・佐竹隆義が在京中で、息子の佐竹義政・佐竹秀義が留守を預かっている状態ですので、頼朝たちが素早く行動すれば、切り崩すことのできる絶好のチャンスだったのです。
橋の上で佐竹を斬る!
上総広常は源頼朝に申し出て一計を案じました。
広常と佐竹氏が姻戚関係にあったので、それを利用し、佐竹義政・佐竹秀義兄弟に会見を申し入れたのです。
弟の秀義は何かを予感したものか、会見を断りました。
兄の義政だけが会見場にやってくると、広常は「二人だけで話したいことがある」と言い、自分も家来を遠ざけて橋の上に義政を呼びだします。
そして義政が応じて橋の上に一人きりでやって来たところを、すかさず広常が殺害――。
遠目に見ていた佐竹氏の家臣たちは、またたく間に大混乱となり、頼朝軍に寝返る者、逃げ去って行方知れずになる者など、散々な有様になります。
知らせを受けた佐竹秀義は、金砂城(常陸太田市)で籠城戦を試みました。
この城は断崖絶壁に面していて守りが堅く、正攻法ではなかなか落ちません。
そこで広常は、もう一度頼朝へ謀略を献じます。
城に入っていなかった佐竹秀義の叔父・佐竹義季を味方に引き入れて、城の弱点となる場所に案内させたのです。
と、作戦はドンピシャ的中。
金砂城は落ち、佐竹氏は上総氏や千葉氏の脅威ではなくなりました。
頼朝や御家人に対して無礼だった?
冒頭で申し上げましたように、上総広常が武辺一辺倒ではなく、なかなかの頭脳を持ち合わせていたことがご理解いただけたでしょうか。
平安末期の武士としては、珍しいタイプ。
ただし、そうした特異な才覚が災いしたのか、同時代の歴史書『吾妻鏡』の中では、あまり良く書かれていません。
「頼朝に対して無礼だった」
「他の御家人に対しても横暴・横柄であった」
といった具合で、粗暴な人物像として評されています。
しかし、その割に家中でのトラブルは伝わっていませんし、暴力沙汰の類も残されていません。
「身内にだけ丁寧なタイプだった」という可能性もありますけれども、肝心の頼朝にしてみると、広常は中々好印象を持たれていたように思えます。
例えば寿永元年(1182年)8月に頼朝の息子・源頼家が誕生したとき、引目役や五夜の儀式の監督などを務めています。
「引目役」というのは、貴人が出産する際に鏑矢(犬追物などにも使う威力を弱めた矢)を振って音を立て、魔除けをする役。
五夜の儀式は読んで字の如く、誕生から五日目にあたるお祝いのこと。
ちなみに三日目のお祝いは小山朝政、七日め目のお祝い(お七夜)は千葉常胤が行いました。
ところが、です。
寿永二年(1183年)12月20日。
頼朝は「謀反を企てた」として、上総広常を誅殺させてしまいました。
いったい何が起きていたのか?
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