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【上総広常】
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景時が広常を刺し殺す
それは上総広常が梶原景時と双六に興じている最中のことでした。
頼朝から命じられた景時が、隠し持っていた刀で広常をズブッ!
双六に興じている隙を狙い刺殺したのです。
まるで漫画や映画のような展開ですが、これを知った広常の嫡男・上総能常は反乱の兵を挙げる……のではなく自害。
上総氏は所領を没収され、その土地は千葉氏や三浦氏などに分けられています。
他の上総氏の者達も罪人扱いされ、広常の又従兄弟である千葉常胤に預けられました。
しかし、それからわずかひと月程度の後のこと。
元暦元年(1184年)正月に「広常が上総国一宮に、頼朝の祈願成就の願文を捧げていた」ことが発覚します。
広常の謀反は完全に冤罪だったのです。
頼朝は誅殺したことを後悔し、千葉氏に預けられていた上総氏の一族を許したそうですが……なんとも後味の悪い話です。
願文が見つかった程度で後悔するのならば、殺す前に真偽を正すなり、それこそ広常本人をしばらく常胤に預けるべきでしたでしょう。
後に、弟の源範頼を幽閉したときにも共通するのですが、頼朝という人は政治的には非常に有能なはずなのに、「謀反」の二文字が出てくると、途端に盲目になる悪癖があるようにも見えます。
なぜ朝廷に気を遣う必要があるんだ?
しかし源頼朝にとっては、家臣が実際に謀反を計画しようとそうでなかろうと、あまり関係なかったのかもしれません。
鎌倉幕府は初めてできた武家政権。
体制をより盤石なものとするためには、幕府サイドに権力を集中させる必要があります。
その点、関東における上総広常の兵力は、あまりに大きなものでした。
当時の記録は、武家の軍勢を十万とか二十万と平気で記すなど、ムチャな誇張をすることで知られますが、それでも強大だったことに間違いはないでしょう。
慈円の記した『愚管抄』では、「頼朝が後白河法皇に語った話」として、次のようなものがあります。
【源頼朝→後白河法皇】
広常は常々言っていました。
『なぜ朝廷に見苦しいほど気を遣うのか?』
『我々はこうして坂東で活動しているのだから、朝廷など関係ないではありませんか?』
と。広常は、平家討伐より関東での独立を望んでいたのです。
ゆえに、けしからぬと思い、誅殺しました。
死人に口なし――果たしてどこまで本当だったのか。
真実は頼朝しか知り得ませんが、実際問題、坂東武士の上総広常が独立独歩の気風を抱いていたとしても何ら不思議でもありません。
だとしたら確かに危険ですよね。
最も得したのは千葉氏か……
頼朝の思想を理解できないままでは、いずれ反乱計画が建てられ、実行に移される可能性も否定できない。
特に、多くの兵を抱えている広常が本当に謀反を起こした場合、平家討伐どころではなくなってしまいます。
ですので「当時、謀反を計画していたから問題だった」のではなく、
「謀反を起こす可能性が否定できず、実際に起こされた場合、非常に面倒だから先に潰しておいた」
という方が正しいのではないでしょうか。
そういった人物を即座に切り捨てられる冷徹さが頼朝の特徴であり、優秀さかもしれません。
だったら事前調査をしっかりしてくれよ、とも思ってしまうんですけどね。
ちなみに、この後、房総平氏の嫡流は千葉氏へ。
「広常の死によって最も得をしたのは常胤」ともいえるわけですが……はてさて。
広常が誅殺された時期は【木曽義仲の討伐】と【一ノ谷の戦い】の間、寿永三年(1184年)2月にあたります。
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平家との全面対決に参加できなかったのは、本人としても非常に無念だったことでしょう。
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長月 七紀・記
【参考】
『国史大辞典』
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon)
ほか