常陸国(茨城県)に本拠地があり、上総広常(千葉県)の背後を脅かしていた佐竹義政。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、『ONE PIECE』のサンジやジョニー・デップの吹き替えで知られる声優・平田広明さんが演じ、あっという間に広常に斬殺されてしまったため、
佐竹義政って一体何者?
と思われた方も少なくないでしょう。
広常が警戒するぐらいですから弱小豪族ではないはず。
考えてみれば戦国期にも佐竹っていたような……。
そう。佐竹氏は源氏の出自であり、数代遡れば頼朝と同じ源頼義にたどり着く常陸の名門武家です。
となると、今度は「なぜ頼朝と対立していたのか」ワケがわからなくなってくるかもしれません。
治承4年(1180年)11月4日はそんな佐竹義政の命日。
本稿では、佐竹氏や坂東の流れを見ながら、義政の動向を追ってみましょう。
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佐竹氏は義光流源氏の出身
源平合戦――なんて言われると、あたかも「源氏グループ」と「平氏グループ」それぞれのルーツに従っていたような印象があります。
しかし、ややこしいことにそうではありません。
鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏は、一応、桓武平氏がルーツとされます。
一方、源氏の棟梁格・源頼朝に逆らった佐竹氏は、武田信義と同じく、源頼義の末弟にあたる源義光が先祖。
要は佐竹氏も義光流源氏の一族なんですね。
簡単な系図を作ってみました。
ご覧の通り、佐竹氏は、武田信玄とも祖を同じくするバリバリの義光流源氏だってことがわかります。
ならばなぜ、頼朝に従わないのか?
と前述の疑問にぶち当たりますが……事はそう単純ではありません。
例えば桓武平氏系統の北条時政(北条氏)は、娘の北条政子が頼朝の妻となり、姻戚関係が重視されました。
同じく、源頼朝についた上総広常も、元はと言えば桓武平氏の出自である房総平氏。
しかし坂東を束ねた頼朝の父・源義朝の郎党として【保元の乱】に参じています。
かといって、その子である頼朝につくかどうか……と、迷っていた顛末は『鎌倉殿の13人』でも描かれましたね。
つまり、当時の坂東武者は
・己の所領を確保
・生き残る策
を模索していたのです。
保元・平治の争いで清盛につき
では佐竹義政はどういう流れで上総氏や頼朝と敵対したのか?
義政は弟の隆義と共に【保元の乱】と【平治の乱】で、平清盛のもとに参戦。
その後、清盛の威光により、常陸七郡を領していました。
佐竹氏は血統よりも、所領を保証した平氏に恩義があると感じたんですね。
では、その勢力はどれほどだったのか?というと、その権勢が『吾妻鏡』に記されています。
威境外に及び、郎従国中に満つ。
国境を超えても威光が及び、従う郎従が国に満ちあふれている――。
威風堂々としており、いかにも強さが感じられる表現。
このような平家サイドの軍が鎌倉(相模)の背後で輝いていたら、広常だけでなく頼朝から見ても厄介でしょう。
そんなときに【富士川の戦い】で平維盛が大敗して、平家の威信が地に堕ち、坂東武者たちにとっては常陸の佐竹潰しという好機が訪れたのです。
ドラマでもあったように上洛を目指したい頼朝に対し、上総広常、三浦義澄、千葉常胤らは、佐竹義政とその甥・秀義の討伐を訴えました。
かくして治承4年(1180年)11月。
頼朝らは10月21日に鎌倉で論功行賞を行うと、27日には常陸へ向かい、11月には佐竹征伐の軍を常陸国府(現・石岡市総社)まで進めました。
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