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【佐竹義政】
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降伏するも広常に謀殺される
やってきた頼朝の軍勢。
佐竹義政の甥である佐竹秀義は、父が平家方にいることも考慮したのか、金砂城に籠城し交戦を選びました。
一方、義政はもはや利にならないと考えたのでしょう。
縁者にあたる上総広常を通じ、源氏への降伏を申し出ます。
常陸国府から北におよそ5キロの地点に、大谷橋(現小美玉市大谷)があり、この橋の上で、義政と広常は面会する手筈を整えたのです。
広常は、頼朝からこんな命令を受けていました。
佐竹義政を討ち取れ――。
そして、いざ両者が面会を果たすと、義政はすぐさま討たれ、儚く散ったのです。
義政の血縁関係を整理しておきましょう。
◆佐竹義政
→佐竹氏初代・昌義の長男
→降伏後、謀殺される
◆佐竹隆義
→佐竹氏初代・昌義の三男にして佐竹氏二代当主
→平家方につき、上方に滞在中
※ちなみに畠山重忠の父・重能も、大番役として上方におり、平家方で戦っています
◆佐竹秀義
→隆義の三男で金砂城に籠城する
→後の佐竹氏三代目当主
※長兄の義政が謀殺され、ニ兄・義清は庶子だったため、三男・隆義の系統が当主となりました
領土が大きく大飢饉の時代だけに
茨城県石岡市正上内には、佐竹義政の首塚が残されています。
佐竹義政は、なぜ謀殺されたのか?
ここまで読んでくれば、理由は明快に思えます。
逆らったから――。
なまじ領土が大きいものだから、反旗を翻されたら危険。
上総広常はじめ、多くの御家人が謀殺された源平末期と鎌倉時代ということを考えれば、当然のように思えます。
しかし、源頼朝に完全に服従する前ということも踏まえますと、別の要素も見えてきます。
治承4年は、大飢饉に苦しめられていた時代です。
兵糧が不足し、士気が低下しており、進軍するためには強引な徴発をせねばならない状況。
これから坂東を治めていくにあたり、そんなことをすれば民心は離れてしまいます。
平家は飢饉に策を取らず、厳罰を乱発したことで、民衆の支持を失いました。
戦を起こして民衆の命と心を奪うよりも、たったひとつ、相手の命を奪えばよい。
たとえ卑怯なヤり方だとしても、そんな事情から頼朝勢は佐竹義政の謀殺を断行したのではないでしょうか。
佐竹氏は続いてゆく
しかし佐竹義政が殺されたからといって、佐竹氏が滅びたわけでもありません。
甥・秀義は抵抗を続け、のちに頼朝に許され、御家人として【奥州合戦】で功をあげました。
佐竹氏はその後も存続し、戦国時代には甲斐武田氏と並ぶ、源氏の血を引く大名として関東や東北に睨みを利かせ、北条や伊達などと勢力争いを演じています。
江戸時代には秋田へ転封されながら、名門として今なお同家を残しています。
一方、佐竹義政を騙し討ちにした上総広常。
そんな広常は梶原景時により謀殺され、さらにその梶原景時も、頼朝の死後にその庇護を失うと、一族ごと滅ぼされてしまいました。
そうした佐竹敵対者の末路を踏まえると、なんとも皮肉な運命を感じさせる結末ではあります。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon)
他