「滅亡」と書かれると『一人残らず死んでしまったのか!』と一瞬思ってしまいますよね。
しかし歴史の場合、「その家は表舞台から消えました」程度の意味であることが少なくありません。
たとえ争いに負けたとしても、
・主要人物が首を切られた後、残された人はどこかに隠れ住みました
・他の家に仕えて血を残しました
といったケースが多々あるからです。
本日はそんなお話の一つ、誰もが知っている悲劇的な最期を迎えた、あの人の子孫のお話です。
長元四年(1031年)6月6日は、平忠常の乱を起こした平忠常(ただつね)の命日です。
この名前だけだと「誰?」と思う方も多そうですが、母方の祖父が平将門。
それだけで何かヤバそうな感じがしますね。
将門がああいう最期を迎えているので、一族皆処刑されているようなイメージがありますが、忠常のカーチャン・春姫は山に逃げていて助かりました。
ちなみに、忠常は父方をたどっても母方をたどっても桓武天皇に行き着くという、ある意味、生粋の桓武平氏でもあります。

桓武天皇/wikipediaより引用
安房の国府を襲い、朝廷から討伐軍を派遣され
この時代によくあることで、忠常の若いころのことはあまりよくわかっていません。
祖父や父が遺した武力を盾に、国司(地方役人のトップ・現代なら都道府県知事みたいなもの)に逆らって税を収めなかったといわれていますので、従順な人ではなかったのでしょう。
祖先が桓武天皇で祖父が「新皇(を名乗った平将門)」ですから、血筋に対する自負もあったのかもしれません。

平将門/wikipediaより引用
そして40歳のとき、忠常は大きな事件を起こしてしまいます。
安房(現・千葉県南部)の国府を襲撃し、その長官である安房守を殺してしまったのです。
おそらくは税をめぐる争いが原因だろうといわれているのですが、やはり原因はハッキリせず。
しかし、ささいな反抗レベルならともかく、一国の国守をブッコロしてそのままでいられるはずがありません。
朝廷から討伐軍が差し向けられ、忠常は一族を率いて四年ほど戦うことになります。
これが【平忠常の乱】と呼ばれている反乱。まんまですね。
検非違使の兵では太刀打ちできないでしょ、と思ったら
最初は忠常と同族である桓武平氏の当主・平直方と、検非違使(けびいし)の中原成通(なかはらのなりみち)が討伐に向かいました。
検非違使は当時の警察みたいなものですが、東国でバリバリ戦ってきた武士たちに勝てるはずがありません。
軍隊と警察ぐらいの差があったかもしれません。
そのせいか、成通は、関東へ着く前に「実家の母親が病気らしいんで帰りますね」(意訳)と言い訳をして帰ってしまっています。まぁ、仕方ないでしょう。
もちろん、もう一人の平直方は違います。
平直方は同族の不始末にケリをつけるべく、持久戦に頑張りました。
が、地の利が忠常軍にあるので、なかなか思うようにいきません。
そうこうしているうちに朝廷から「お前、戦ヘタすぎ、クビ」(超訳)と言われて、討伐軍のトップを解任されてしまいました。
戦場の実情を知らない公家たちにあーだこーだ言われて、平直方もさぞかしキレそうになったのではないでしょうか。
「道長四天王」 の一人がやってきてやべぇ
その後、新たに源頼信という人物が忠常討伐に任じられます。
この人はかつて藤原道長に仕えていて「道長四天王」と呼ばれていました。

『紫式部日記絵巻』の藤原道長/wikipediaより引用
忠常は若いころ頼信に仕えていたことがあったといわれているので、その縁も関係したと思われます。
昔の上司って、直接の関係がなくなった後も気まずいですものね。
頼信が到着する前に、忠常軍はすっかり疲弊していました。
そして頼信が甲斐に着いたあたりで、忠常は息子二人を連れて降伏してしまいます。
もしも頼信と忠常が正面から戦っていたら、これもまた「源平の戦い」になってましたね。ややこしくならなくてよかった。
かくして忠常たちは京へ連行されることになりますが、美濃(現・岐阜県)で病気のため亡くなってしまいます。
首は京で晒され、その後、親族に返却。
一緒に連行された息子二人は許されて関東へ帰りました。
意外なほど寛大な処置ですが、朝廷でも「将門の子孫だし、また祟られたらヤダ」とか思ったんでしょうか。そりゃあな。
「将門の血筋は今も日本中に残っている」
源頼信は河内源氏の祖であり、その子孫に源義朝や源頼朝がおります。
以降、忠常の血筋は、その河内源氏に仕えることになりました。
無事に帰った息子たちの血筋はその後も続き、頼朝の挙兵から鎌倉幕府に仕えた後、やがて戦国大名などへ。
上総氏は頼朝の時代に謀反を疑われたのがきっかけで上総広常が討たれて凋落し、鎌倉時代中期に滅亡してしまいましたが、

上総広常/wikipediaより引用
千葉氏は長く存続しました。
現在の千葉市にあたる領域に初めて都市を築いたのが、千葉氏を初めて名乗った千葉常重という人です。
平忠常の玄孫(ひ孫の次の世代)にあたりますね。
千葉氏は後北条家に仕えていたため、豊臣 秀吉による小田原征伐で大名としては滅亡。
しかし一族は、方々の藩に仕え、血筋を残したといわれています。
また、それまでの間にも元寇の際に九州へ土着した人々もいました。中には庄屋や豪農になった人もいるようで、たくましいですね。
ものすごく大ざっぱ・大げさにいうと「将門の血筋は今も日本中に残っている」というところでしょうか。
まぁ、それを言ったらどこの家でも同じなんですけども、将門のインパクトが……ね。
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【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部『決定版 図説・源平合戦人物伝』(→amazon)
平忠常/Wikipedia
平良文/Wikipedia
平忠常の乱/Wikipedia





