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【上総広常】
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橋の上で佐竹を斬る!
広常と佐竹氏が姻戚関係にあったので、それを利用し、佐竹義政・佐竹秀義兄弟に会見を申し入れたのです。
弟の秀義は何かを予感したものか、会見を断りました。
兄の義政だけが会見場にやってくると、広常は「二人だけで話したいことがある」と言い、自分も家来を遠ざけて橋の上に義政を呼びだします。
そして義政が応じて橋の上に一人きりでやって来たところを、すかさず広常が殺害――。
遠目に見ていた佐竹氏の家臣たちは、またたく間に大混乱となり、頼朝軍に寝返る者、逃げ去って行方知れずになる者など、散々な有様になります。
知らせを受けた佐竹秀義は、金砂城(常陸太田市)で籠城戦を試みました。
この城は断崖絶壁に面していて守りが堅く、正攻法ではなかなか落ちません。
そこで広常は、もう一度頼朝へ謀略を献じます。
城に入っていなかった佐竹秀義の叔父・佐竹義季を味方に引き入れて、城の弱点となる場所に案内させたのです。
と、作戦はドンピシャ的中。
金砂城は落ち、佐竹氏は上総氏や千葉氏の脅威ではなくなりました。
頼朝や御家人に対して無礼だった?
冒頭で申し上げましたように、上総広常が武辺一辺倒ではなく、なかなかの頭脳を持ち合わせていたことがご理解いただけたでしょうか。
平安末期の武士としては、珍しいタイプ。
ただし、そうした特異な才覚が災いしたのか、同時代の歴史書『吾妻鏡』の中では、あまり良く書かれていません。
「頼朝に対して無礼だった」
「他の御家人に対しても横暴・横柄であった」
といった具合で、粗暴な人物像として評されています。
しかし、その割に家中でのトラブルは伝わっていませんし、暴力沙汰の類も残されていません。
「身内にだけ丁寧なタイプだった」という可能性もありますけれども、肝心の頼朝にしてみると、広常は中々好印象を持たれていたように思えます。
例えば寿永元年(1182年)8月に頼朝の息子・源頼家が誕生したとき、引目役や五夜の儀式の監督などを務めています。
「引目役」というのは、貴人が出産する際に鏑矢(犬追物などにも使う威力を弱めた矢)を振って音を立て、魔除けをする役。
五夜の儀式は読んで字の如く、誕生から五日目にあたるお祝いのこと。
ちなみに三日目のお祝いは小山朝政、七日め目のお祝い(お七夜)は千葉常胤が行いました。
ところが、です。
寿永二年(1183年)12月20日。
頼朝は「謀反を企てた」として、上総広常を誅殺させてしまいました。
いったい何が起きていたのか?
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