阿野全成

阿野全成/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

占いで頼朝に重宝された阿野全成(義経の同母兄)最期は鎌倉の権力闘争に巻き込まれ

源頼朝の弟で僧侶。

やってることは主に占い。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、新納慎也さんが演じていた阿野全成(あのぜんじょう)を覚えていらっしゃいますか?

初登場のときには、いきなり「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」と九字を唱え、風を起こそうとして失敗し、話題をさらいました。

さらには北条義時の妹である実衣(阿波局)と恋に落ち、夫となっています。

そんな彼を見て、モヤモヤされる方もいらっしゃったでしょう。

頼朝の弟というけれど、いったい彼は何者なのか?

史実ではどんな事績があるのか?

本稿ではドラマと対比させながら、建仁3年(1203年)6月23日が命日である阿野全成の生涯を振り返ります。

 


幼名は今若 義経の同母兄

阿野全成は、源義朝の七男です(頼朝は三男)。

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雑仕(ぞうし)であった常盤御前が母で、源義経の同母兄。

もうひとり、母が同じ兄弟の義円がいて、その三兄弟を年齢順に並べるとこうです。

仁平3年(1153年)生まれ:今若※のちの全成

久寿2年(1155年)生まれ:乙若※のちの義円

平治元年(1159年)生まれ:牛若※のちの義経

常盤御前が幼い三名を連れて逃げ、最終的に平清盛に召し出される様は歴史ファンにはお馴染みであり、過去のフィクションで全成が登場していたのは、主にこの幼いときでした。

要は、義経ばかりが目立っていたんですね。

他の兄弟がもっとクローズアップされて良さそうな、大河ドラマ『義経』でも同様の扱いで、三兄弟が成人して登場する記念すべき作品が『鎌倉殿の13人』でした。

そんな全成は、京都の醍醐寺に預けられ、僧侶となります。

そのため彼は僧籍の武士、あるいは僧侶文官といった分類をされ、別名としては阿野冠者、隠朝禅師、悪禅師といったものがあります。

“悪禅師”とは、いかにもイメージが悪いですが、怪力だったことからその名が付けられたとされます。

 


下総国驚沼で兄・頼朝と再会

兄・頼朝が挙兵した激動の治承4年(1180年)――以仁王の令旨を知った阿野全成は、ひそかに関東を目指して京都を出立しました。

しかし、頼朝は【石橋山の戦い】で大敗。

全成も合流叶わなず、相模国高座郡渋谷(神奈川県大和市)に潜伏します。

頼朝と再会を果たしたのは、同年10月のことです。

場所は下総国驚沼(千葉県習志野市)であり、頼朝と義経が黄瀬川で対面するよりも早い段階で、全成は頼朝と行動を共にしていました。

11月には武蔵国長尾寺を与えられ、さらに駿河国阿野庄(静岡県沼津市)を領地に。阿野庄は恩賞として与えられています。

そして北条時政の娘であり、政子の妹でもある阿波局(劇中では実衣)を妻としました。

時系列としては、義時が最初の妻と結婚した時期より前とされています。

『鎌倉殿の13人』で描かれた阿野全成は、断片的な情報を元に人物像が設定されたようです。

悪禅師と呼ばれる割には、戦での活躍はない。かといって、大江広元のように能吏としても際立ってもいない。

占いの技能と仏事で活躍するのが全成。

ドラマではユーモラスに描かれましたが、実際は単なるノリでこなせません。

醍醐寺で学んだ者ゆえの高度な専門技能であり、現代で言えば高学歴エリートにあたります。

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それは、同じように呪術を使う文覚との違いからご理解いただけるでしょう。

平気で嘘をつき、人間的に破綻している文覚と異なり、全成は、あくまで生真面目。

真摯に占い等に取り組んでいました。

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