大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、新納慎也さんが演じる阿野全成(あのぜんじょう)。
頼朝の弟で僧侶。
やってることは主に占い。
初登場のときには、いきなり「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」と九字を唱え、風を起こそうとして失敗し、話題をさらいました。
さらには北条義時の妹である実衣(阿波局)と恋に落ち、ドラマでは現在、夫となっています。
そんな彼を見て、モヤモヤされている方もいらっしゃるでしょう。
頼朝の弟と言うけれど、いったい彼は何者なのか?
どんな事績があるのか?
建仁3年(1203年)6月23日が命日――本稿では、ドラマと対比させながら、史実の阿野全成を追ってみたいと思います。
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幼名は今若 義経の同母兄
阿野全成は、源義朝の七男です(頼朝は三男)。
雑仕(ぞうし)であった常盤御前が母で、源義経の同母兄。
もうひとり、母が同じ兄弟の義円がいて、その三兄弟を年齢順に並べるとこうです。
仁平3年(1153年)生まれ:今若※のちの全成
久寿2年(1155年)生まれ:乙若※のちの義円
平治元年(1159年)生まれ:牛若※のちの義経
常盤御前が幼い三名を連れて逃げ、最終的に平清盛に召し出される様は歴史ファンにはお馴染みであり、過去のフィクションで全成が登場していたのは、主にこの幼いときでした。
要は、義経ばかりが目立っていたんですね。
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もっと兄弟がクローズアップされて良さそうな、大河ドラマ『義経』でも同様の扱いで、三兄弟が成人して登場する記念すべき作品が今年の『鎌倉殿の13人』となります。
そんな全成は、京都の醍醐寺に預けられ、僧侶となりました。
そのため彼は僧籍の武士、あるいは僧侶文官といった分類をされ、別名としては阿野冠者、隠朝禅師、悪禅師といったものがあります。
“悪禅師”とは、いかにもイメージが悪いですが、怪力だったことからその名が付けられたとされます。
下総国驚沼で兄・頼朝と再会
兄・頼朝が挙兵した激動の治承4年(1180年)――以仁王の令旨を知った阿野全成は、ひそかに関東を目指して京都を出立しました。
しかし、頼朝は【石橋山の戦い】で大敗。
全成も合流叶わなず、相模国高座郡渋谷(神奈川県大和市)に潜伏します。
頼朝と再会を果たしたのは、同年10月のことです。
場所は下総国驚沼(千葉県習志野市)であり、頼朝と義経が黄瀬川で対面するよりも早い段階で、全成は頼朝と行動を共にしていました。
11月には武蔵国長尾寺を与えられ、さらに駿河国阿野庄(静岡県沼津市)を領地に。阿野庄は恩賞として与えられています。
そして北条時政の娘であり、政子の妹でもある阿波局(劇中では実衣)を妻としました。
時系列としては、義時が最初の妻と結婚した時期より前とされています。
『鎌倉殿の13人』で描かれる阿野全成は、断片的な情報を元に人物像が設定されているようです。
悪禅師と呼ばれる割には、戦での活躍はない。かといって、大江広元のように能吏としても際立ってもいない。
占いの技能と仏事で活躍するのが全成。
ドラマではユーモラスに描かれていますが、実際は単なるノリでこなせません。
醍醐寺で学んだ者ゆえの高度な専門技能であり、現代で言えば高学歴エリートにあたります。
それは、同じように呪術を使う文覚との違いからご理解いただけるでしょう。
平気で嘘をつき、人間的に破綻している文覚と異なり、全成は、あくまで生真面目。
真摯に占い等に取り組んでいました。
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北条氏の姻戚となり実朝派に
実衣との結婚も、劇中では微笑ましい展開でした。
史実だけ見れば、源氏との関係強化を計る北条氏の野心と解釈できますが、ドラマでは淡い恋が実ったように描かれていた。
なぜ、そうした表現だったのか?
『鎌倉殿の13人』が、1979年の大河ドラマ『草燃える』からの脱却を目指しているからと思われます。
『草燃える』での阿野全成と阿波局夫妻は、野心的な陰謀家でした。
今後の展開は不明ですが、『鎌倉殿の13人』における全成夫妻は根っからの悪人には見えない。
史実では、二人の結婚後、全成より、むしろ実衣(阿波局)の方が目立つようになります。
建久3年(1192年)に阿波局は、頼朝と政子の二男・千幡(後の源実朝)の乳母となりました。
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時流次第では、源氏の跡取りとなるかもしれない貴重な男児。
乳母に選ばれることは名誉であり、その影響か、以降、全成の記述は「阿波局の夫」という立場で言及されるものが多くなっていきます。
しかしそのことが彼の死因にも繋がってしまうのですが……。
そもそも頼朝の在命中、彼の弟たちは、全成以外の全員が命を落としていました。
性格があまりに放埒で、政治的才覚に疎く、奥州合戦で追い詰められた義経。
身の処し方を知っていたにも関わらず、不運な展開から死を賜った源範頼。
こうした兄弟と比べると、全成は武功こそないものの、逆に失態もなく、かつ北条氏という後ろ盾もあって安泰でした。
しかし、その構図にヒビが入ります。
頼朝の死です。
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