大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で生田斗真さんが演じていた源仲章(なかあきら)。
源氏姓だけに、一瞬『頼朝と関係あるの?』と考えてしまった方もおられるかもしれませんが、仲章は宇多源氏の出身であり、頼朝らの河内源氏(清和源氏)とはまるで違います。
仲章らの一族は朝廷で生きる上級貴族。
坂東とは縁もゆかりも……とはならず、彼は建保7年(1219年)1月27日に鎌倉鶴岡八幡宮で悲劇的な死を迎えることで知られます。
しかも北条義時の代わりに殺されたとして、歴史に名を残すのですから物騒なこと極まりない。
一体、当時の政権で何が起きていたのか?
『鎌倉殿の13人』では生田斗真さんが壮絶に嫌味ったらしい役を好演していた、源仲章、史実の生涯を振り返ってみましょう。
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源氏将軍に仕えた京都からの御家人
鎌倉時代初期の三代将軍には、初の武家政権ならではの特徴があります。
行政事務等に通じた文官や貴族が“京都”から来ていることです。
頼朝、頼家、実朝、それぞれの治世をざっと見てみますと……。
頼朝が鎌倉で何かするらしい。
京都からすれば何がなにやらわからない。
それでも「鶏口(けいこう)となるとも牛後(ぎゅうご)となるなかれ」のガッツを持つ人がいて、坂東へやってくる者たちがいました。
摂関政治や院政により硬直化しきっていた京都では芽が出ないことに不満を抱いていたことが『鎌倉殿の13人』でも表現されています。
その顕著な例として、大江広元は、頼朝の上洛に付き従った際、「これで京都で自分を見下してきた者たちの鼻をあかせる」と上機嫌でした。
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◆源頼家と平知康
後白河院のもとで、丹後局と並び、悪だくらみをしていた平知康です。
かつて坂東武士たちを露骨に蔑視していた様子だったのに、よりにもよってなぜ鎌倉まで来たのか?というと、蹴鞠指導のためでした。
劇中では、鎌倉殿・頼家を堕落させ、軽薄な京都人扱いをされています。
古井戸に落ちたという『吾妻鏡』の記述を基に、コミカルなシーンも描かれました。
とはいえ、政治面において力は発揮しません。なにせ特技は蹴鞠と鼓ですので。
大江広元とはまるで違います。
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◆源実朝と源仲章
大江広元は、下級貴族が逆転のために発的に下向して来ました。
平知康は、後白河院の死後、流れに流れて鎌倉に辿り着きました。
では源仲章は?
後鳥羽院が源実朝のために選び、鎌倉まで遣わした逸材。
院近臣の家に生まれた上流階級の出自であり、後鳥羽院に仕えていた、エリートの中のエリートです。
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博識さでは大江広元に匹敵し、院の近くにいたという点では平知康と通じ、そのうえ貴公子ですから、これほどの人物が近くに侍るのは、実朝にとって名誉であったことでしょう。
いかがでしょう。源仲章とは生田斗真さんが演じるにふさわしい、高貴な人物と言えます。
実朝の師として
源仲章の生年は不明。
その父・源光遠は後白河院の近臣として務めていました。
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仲章は、後白河の孫にあたる後鳥羽院に仕えながら、在京御家人としての資格を持つという、特殊な人物でした。任務としては犯罪者の追捕、幕府との連携です。
彼自身が名文を綴って発表するようなタイプではなかったものの、大学頭や文書博士を務めるなど、知識は抜群でした。
博学で鎌倉に近い。
仲章にはそんな個性があり、鎌倉の激動が、彼の人生を一変させました。
ときは建仁3年(1203年)。
6月に頼朝の弟・阿野全成が謀反の疑いで誅殺されると、翌7月、全成の子である頼全も殺害されました。
京都の東山延年寺で修行中だったところを源仲章と佐々木定綱が踏み込み、謀反人の子として討ちとったのです。
一方、鎌倉では、二代将軍だった源頼家が重病を患い、これを機に北条時政が動きます。
同年9月、頼家の背後にいて、かねてから権力闘争を繰り広げていた比企能員を討ち取り、一族もろとも滅亡させました(【比企能員の乱】)。
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流血の末、空位となった鎌倉殿の座についたのは頼朝の二男である千幡。
その兄でもあった頼家は伊豆修善寺に送られました。
そして翌10月、千幡は元服し、源実朝となります。
なお、頼家の息子で跡取りの候補だった一幡は、11月、北条義時によって誅殺されています。そしてこの後、頼家も修善寺で暗殺されました。
政治指南書『貞観政要』
源仲章が鎌倉へ下向したのは、ちょうどこの時期のこと。
後鳥羽院のはからいで、新たな鎌倉殿となった実朝を助けるべく鎌倉へ送られ、実朝は仲章を侍読(じとう)としました。
侍読は本来、天皇の家庭教師を意味しますが、時代がくだると共に摂関家や将軍の教師もそう呼ばれるようになります。
では実朝は一体何を学んだのでしょうか?
かつて母の北条政子は、頼家に『貞観政要』(じょうがんせいよう)を読むように勧めました。
唐太宗・李世民の原稿録である『貞観政要』は、日本でも長らく親しまれていた政治指南書であり、その中には魏徴ら家臣の諫言を聞き入れる太宗の謙虚な姿が繰り返し登場します。
皇帝・主君であっても謙虚であれ。
そんな姿勢が説かれていて、頼家がもっと早く『貞観政要』を熟読していれば、もっと素直に諫言を聞き入れていたら、悲劇はなかったかも……と、政子が苦い思いを抱いたとしても不思議はありません。
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一方、都から下向した仲章にとって、こうした漢籍の指導はお手のものです。
理想的な仁君になって欲しい――。
仲章と実朝の二人は、そんな期待を背負った師弟であり、実際、建暦元年年(1211年)7月4日に実朝が『貞観政要』を読み始めたという記述が『吾妻鏡』にあります。
そして同年11月20日、4か月半かけて同書の講義は終わりました。
師弟は、理想の政治を目指し、学び合っていたのでしょう。
実朝は、和歌を得意としたことでも知られますが、漢籍由来の知識と豊かな語彙力を駆使した作品には、師弟関係が反映されていたんですね。
しかし、京都から来た仲章は、鎌倉武士たちに疎んじられる側面も持ち合わせてました。それは……。
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