元久二年(1205年)4月9日、佐々木定綱という武士が亡くなりました。
一般的にほとんど知名度の無い方だったのが、2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で若干風向きが変わってきましたかね。
頼朝が挙兵したときに現れた「歯が一本しかないおじいちゃん武士」を覚えていません?
しわくちゃな顔で耳が遠く、何を聞いても要領を得ない回答――見ている者たちをヤキモキさせましたが、彼は佐々木秀義(ひでよし)という武将で、その息子たち四兄弟も参陣。
佐々木秀義さんを描きました。 康すおんさん#鎌倉殿の13人 #大河ドラマ #鎌倉絵 #殿絵 #佐々木秀義 #康すおん @nhk_kamakura13 pic.twitter.com/4Fhb4Oh8Oq
— 森田 伸 ShinMORITA (@moritax321) February 2, 2022
佐々木定綱はその兄弟の一人なのです。
そしてこの定綱、後世から振り返ってみると「実はスゴイのでは……?」という御方で、近江源氏佐々木氏として数多くの著名人を輩出しました。
源平合戦で活躍し旧領を取り戻す!しかし
佐々木定綱本人は、源頼朝が関東に流されていた時代からの家臣でした。
頼朝が流罪になったのは、父・源義朝が【平治の乱】に敗れたのがキッカケ。

平治の乱で敗走する源義朝/wikipediaより引用
定綱はこのとき一家揃って義朝方についていたので、処罰される前に近畿から逃げなくてはなりませんでした。
そこで頼朝を追うような形で、佐々木一家も関東へやってくることになります。
皆逃げ足が早かったというか手際が良かったらしく、別れ別れではありましたが、関東で腰を落ち着けることができました。逃げ足も才能のうちですね。
そのまま雌伏すること約20年。
「頼朝、挙兵したってよ」と聞きつけた佐々木一家は、頼朝のもとに集って平家討伐の軍に加わります。
源平の合戦では主要な戦のほとんどに参加し、富士川の戦いの後にはその功績を認められて、元の領地を返してもらいました。

富士川と富士山
壇ノ浦の戦いにも当然出陣。
さらにその後の戦でも活躍を続けたため、頼朝の覚えもめでたかったようです。
しかし、建久二年(1191年)、それまでの努力が台無しになりかける事件が起きます。
トラブルの相手は、あの比叡山延暦寺でした。
うっかり神鏡を割ってしまう大惨事
佐々木家の領地は延暦寺と縁が深く、同家が寺に年貢のようなものを収めなくてはいけません。
しかし、その年の前年は水害が起きたため領内が不作になり、支払いに遅れが出てしまいます。
無い袖は振れないので仕方がありません。
これに対し、激怒した延暦寺側の聖職者たちは「はよ払わんかい!!」と大勢で押し寄せてきたのです。
当時の僧兵は、武士にとっても非常に厄介な存在。
しかも錦の御旗よろしく、神鏡を掲げてのことでした。

興福寺の僧兵/wikipediaより引用
元々義務を果たしていなかった佐々木家側が悪いですが、この取立てのとき延暦寺側は
「佐々木家の人に乱暴を働いた挙句に火をつける」
という、どこからどう見てもただの暴徒と同じことをやってくれます。
たまたま佐々木定綱は京都に出かけていて留守だったため、息子たちが事に当たり、これがまたよくありませんでした。
上記のような横暴を働かれたので黙っておれず、応戦した際、うっかり神鏡を壊してしまったのです。
その名の通り「神聖な鏡」のことですから、神社のご神体になっており、要するにとても大切なもの。
当時は極刑に値するほどの罪だったため、単なる年貢の取立てが朝廷と幕府を巻き込んだ大騒動に発展してしまいました。
幸い、朝廷の役人も鎌倉の頼朝も定綱に味方するような動きをしてくれたので、即座に死刑とはなりません。
一方の延暦寺側は、当然ながら不満が募ります。
そして再三朝廷へゴネた結果、何とか死刑は免れて佐々木一家はあちこちへ流罪となってしまうのです。
次男の定重は打首に処されてしまう
頼朝としても「延暦寺側の人だって佐々木家の武士をコロしてるでしょ? もうちょっと何とかなりませんかね?」(※イメージです)と交渉しましたが、これは失敗。
かえって延暦寺側から「神鏡を壊した罰当たりなヤツを殺せ!!」と反発を招いてしまい、頼朝はこれを飲まざるをえなくなります。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
その罰当たりこと定綱の次男・定重は、配流先に向かう途中で首を落とされることになりました。
一人の犠牲で済んだと思えばまだいいほうでしょうか。
定綱は息子を失いましたが、3年で元の地位に戻ることができました。
上洛した頼朝のお供を務めたり、彼の信頼が揺らぐことはなかったようです。
頼朝ってとかく部下に厳しいイメージがありますが、やはりデキる人はきちんと評価して大切にしていますよね。
その後は問題なく役目に励んだらしく、亡くなる直前に出家したということの他に目立った記録はありません。
京極家に今井家 さらには間宮林蔵まで!
さて、そんな感じで地味な定綱ですが、実はこれより後の時代から見ると結構スゴイ人だったりします。
実に多くの戦国武将や歴史人物のご先祖様となっているです。
近い時代では、足利尊氏に良い評価をしてくれた夢窓疎石(むそうそせき)というお坊さんがいます。定綱からするとひ孫です。
また、苗字が変わっているのでわかりにくいのですけども、近江の大名・京極家や六角家の祖先に当たります。
京極家は「蛍大名」こと京極高次の家ですね。

京極高次/wikipediaより引用
六角家は浅井 長政や織田 信長と戦っているので、名前を見かけたことのある方もいるのではないでしょうか。
六角義賢あたりはゲームやフィクションなどで知られる存在ですね。
他には商人かつ茶人の今井家や、医師の曲直瀬道三、樺太が島であることを発見した間宮林蔵などなど。
あらゆる分野へ多岐にわたり、子孫が活躍しており、もともと佐々木家は戦以外のことに才能がある一族だったのかもしれません。
鎌倉時代にはなかったものも多いですし、これこそ後世からの視点だからこそ言えることですけども。
「家を存続させること」が武士の最大の目的。
そう考えれば、定綱は立派にそれを成し遂げたことになります。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon)
佐々木定綱/wikipedia






