大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では何かとトラブルを起こす二代目鎌倉殿として描かれていましたが、史実でも元久元年(1204年)7月18日に、享年23という若さで亡くなっています。
しかも”現職の征夷大将軍がこの若さで亡くなる”という大事件なのに、鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』には
「今日、頼家殿が亡くなりました。終わり」(超訳)
程度で済まされているのです。
『吾妻鏡』は「北条氏サイコー!」というスタンスが一貫していて、不都合なことは削除されているのではないか?という指摘があり、頼家の暗殺もその一つだといわれています。
つまり北条氏=母親・北条政子の実家と仲が悪かったということになるのですが、それにしたってなぜ殺されることになったのか。
頼家の生涯と共に振り返ってみましょう。
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比企能員の娘・若狭局を妻の一人に迎え
頼家は源頼朝と北条政子の間の子供として、寿永元年(1182年)に生まれました。
正室との間に生まれた男子だったので、誕生直後から跡取りとみなされています。
この時代、エライ身分の家庭では実の両親ではなく乳母とその夫がほとんどの子育てを行います。
頼家には比企能員の妻と、その妹でもある河越重頼の妻(のちの河越尼)、そして梶原景時の妻が乳母を務めました。
彼女たちの夫は全員「鎌倉幕府草創期の重鎮」といえる人々であり、ここからも頼家への嘱望がうかがえますね。
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また、頼朝は政子の安産を願って現在も鎌倉に残る「段葛」を作らせたとされています。
祈願の他にも「これから俺の跡継ぎが生まれるから、皆力を合わせるように」という御家人たちへの誘導が含まれていたのかもしれません。
その期待を受けて、頼家は順調に育ちました。
特に武芸に優れ、建久八年(1197年)に従五位上・左近衛少将の官位を受けて、前途洋々といったところ。
正室が誰だったのかはわかっていませんが、少なくとも早いうちに比企能員の娘・若狭局を妻の一人に迎えています。
比企能員の妻が頼家の乳母ですから、乳兄弟にあたる女性を妻にしたという構図ですね。
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おそらくこのあたりは、頼朝の意向が強かったものと思われます。
頼朝は戦乱によって父方の後押しをほとんど受けられず、母も保元の乱の前に亡くなっていた&関東から遠すぎて援助を得にくい状況で青少年期を過ごしました。
その中で援助し続けてくれたのが、比企尼とその娘婿たちだったのです。
頼朝としては「かつて世話になった礼として、比企氏は第一の家臣に位置づけたい」と思い、頼家の幼いうちは教育を任せ、長じてからは比企氏の女性を妻にさせたのではないでしょうか。
頼朝が最も信頼していた一人・平賀義信(信濃源氏)に補佐され、本人も自信を持って「トーチャンの次は俺が幕府をリードしてやるぜ!」と思っていたことでしょう。
しかし、頼家18歳の正治元年(1199年)に頼朝が亡くなると、彼の予想とは違った方向に事態が進み始めます。
18歳で鎌倉幕府を背負う
18歳といえば、当時の感覚としては若造とはいえ立派な大人です。
源頼家は当初から後継者として見られていたので、しかるべき教育も受けていたでしょう。
ですので当然、頼家が家督を継ぎ、朝廷からも認められて左近衛中将ののち従三位・左衛門督に任じられています。
しかし、そこで急に前へ出てきたのが北条氏。
「頼家はまだ若くて心配だから、これからはデキる人たち13人の合議制にするわ」(超訳)
そう言い出して、頼家が直接訴訟などを捌くことをやめさせてしまったのです。
おそらく時政が「このままだと乳母父の比企能員が最有力者になってしまう」という点を懸念し、まずはジャブとして合議制にしたのでしょう。
13人の中には、大江広元など京都出身の文官たちも入っていて、記録をつけたり故事を拾ったりする仕事も評価されていたので悪いことばかりでもないんですけどね。
やはり統治に関しては公家社会のほうが何百年も先輩です。
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一方、当時の武士は、政治どころか文字も書けない者が大多数で、しかも血の気が多いので、何か問題が起きればすぐ殺し合いになってしまった。
いつまでもこんな調子で殺りあっていたら、再び公家の時代へ逆戻りしかねません。
そうならないためにも、武士たちは
・文字を覚え
・記録を付ける
ことは広く浸透させる必要があったのです。
もしも時政が「ワシは頼家の祖父なんで、これからは能員殿の代わって後見します!」
などとドストレートに言おうものなら、その場で能員と時政の取っ組み合いが始まり、双方の郎党もおっ始めて大混乱になったことでしょう。
これは大げさな話ではなく、この時代の武士は本当に些細なことで武器を持ち出してきますので……話を頼家に戻しましょう。
建仁二年に征夷大将軍へ任じられても
建仁二年(1202年)に頼家が朝廷から征夷大将軍へ任じられても、合議制は変わらずそのまま。
頼家は実務から遠ざけられ、認可するだけの立ち位置になってしまっていました。
それはそれで「責任を負う」という大変な役目なのですが、若くてやる気の有り余っている頼家にとっては物足りません。
「そっちがその気ならこっちだってやったるわい! 俺の近習(主君の側でいろいろやる人)を通さないと話聞かないからな!!」(超訳)
そうして真っ向から北条氏にケンカを売ったのです。
どっちかというと売ったのが北条氏で、買ったのが頼家ですかね。
この近習の主なメンバーは、
・小笠原長経
・比企時員
・中野能成
という人たちでした。
『吾妻鑑』には
安達景盛が囲っていた京都出身の女性に頼家が横恋慕し、景盛の留守中に将軍御所の近くの家へ移して、自分もそこに住むようになった
なんて話があります。
しかも「景盛が例の女性のことで、頼家様を恨んでいるとか」と頼家に告げ口した者がおり、頼家が「やられる前にやれ!」とばかりに景盛を討たせようとしたので、政子が「なんて軽率な!!」と止めた……というオチがついています。
あまりにも頼家をバカにしすぎというか、もしこれが事実であってもしょーもなさすぎるというか。
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