853年7月13日(仁寿3年6月4日)は葛原親王が亡くなった日です。
読み方は「かずらわらしんのう」であり、父が桓武天皇。
「誰それ?」と言われるかもしれませんが、実は日本史に大きな影響を与えた方と言えます。
葛原親王の子である高望王が臣籍降下して平氏となり、平清盛を輩出した桓武平氏(伊勢平氏)の流れを作ったのです。
もちろん平姓となったのは彼らだけでなく、以下の通り、いくつかの系統があります。
桓武平氏以外はエピソードが少なく、取り沙汰される頻度も高くない……つまりは政治や軍事の表舞台には立てなかったんですね。
そこで本稿では、平家の代表・桓武平氏の歴史を振り返ってみたいと思います。
なお、桓武平氏で最も有名な2人、平将門と平清盛のカンタンな系図を最初に掲載しておきます。
両者は世代がかなり異なりますが、もともとは桓武天皇を祖に持つことがご理解できるでしょう。
桓武天皇~平将門
桓武天皇~平清盛
【桓武天皇】
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葛原親王
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平高望
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平国香
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平貞盛
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平維衡
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平正度
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平正衡
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平正盛
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平忠盛
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平清盛
なぜ平清盛は平家の栄華を極めながらすぐに衰退させてしまったのか
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ではまず、始まりの葛原親王から見て参りたいと思います。
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長男・平高棟の系統
葛原親王(かずらわらしんのう)は桓武天皇の第三皇子です。
彼には三人(平高棟・平善棟・平高望)の子供がいて、それぞれ違う流れを辿りました。
長男の平高棟(たいら の たかむね)は公家として続いた家柄です。このため高棟の子孫たちを「堂上平氏」とも呼びます。
平安末期に、この堂上平氏の時子が、平清盛に嫁いだため、血筋が合流したともいえますね。
また、後白河法皇の寵妃・平滋子(建春門院)は時子の異母妹でした。
滋子と堂上平氏は、次第に対立を深めていく後白河法皇と清盛たち武家平氏の間に入るような形で、いわば緩衝材になっていました。
そのため、滋子が急病により35歳で世を去ると、一気に両者の関係が悪化し、平家討伐まで進んでいます。
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また、「平家にあらずんば人にあらず」という、現代なら炎上発言と報道されてしまいそうな平時忠は、時子の同母弟です。
時忠の子孫とされる家は能登で豪農となり、現在も続いているとかいないとか。
他には、時忠の弟・親宗の子孫(唐橋家)や、叔父である信範の子孫(西洞院家・安居院家・烏丸家)が、鎌倉時代以降も公家として続き、江戸時代には堂上家も出すなど、血を残しました。
これはこの系統が「日記の家」として京都や朝廷の記録をつける役目を負っていたこと、親宗が途中から後白河法皇側に味方したことなどによります。
歴史の表舞台からは姿を消す代わりに、血筋を繋げたわけですね。
高棟の血を引く人の中には、祐子内親王家紀伊や周防内侍など、百人一首に採られた女性歌人も含まれています。
歌人の名前が出てくると、いかにも由緒正しいお公家さんという印象が強まりますね。
次男・平善棟の系統
葛原親王の次男は、平善棟(たいら の よしむね)といいました。
彼だけは記録上確実な子孫がおらず、断絶したと考えられています。
こういうときの次男やその子孫って、だいたいそんな感じになりますよね。
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