2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は、言わずもがな鎌倉武士が中心の世界。
序盤は、荒々しい坂東武者と軍略の天才・源義経を中心に源平合戦が描かれましたが、派手な戦いがいったん落ち着くと、毛色の違う人物が目立ち始めます。
源頼朝の側にいて軍師のように策を提言していた人物――大江広元。
史実では嘉禄元年(1225年)6月10日に亡くなっています。
ドラマでは演じている栗原英雄さんが、いかにも頭の良さそうな御方で、「朝廷から鎌倉へ下向してきた」という説明でしたが、彼は実際に何をしたのか?
史実の生涯を振り返ってみましょう。
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秀才・大江広元
鎌倉幕府の重鎮として知られる大江広元。
彼はもともと武士ではなく、公家の中でも学者肌の家に生まれました。
ただし、位は低く、生年も不明。
嘉禄元年に亡くなった際の年齢から逆算して推定されることがほとんどで、例えば『吾妻鏡』だと享年78で、久安四年(1148年)生まれ。
『尊卑分脈』ですと享年83になり、康治二年(1143年)の誕生となっています。
久安三年(1147年)生まれの頼朝とは同世代で、その実年齢など関係ない頭脳の持ち主でした。
広元は大学寮で明経道を学び、明経得業生(明経道の成績優秀者)にも認められた秀才だったのです。
仁安三年(1168年)12月13日、広元は縫殿允(ぬいどのじょう)という官職に任じられ、役人としてデビューしました。
縫殿允というのは、縫殿寮(ぬいどのりょう)という役所のナンバー3にあたる職。
宮中の衣装を誂える機関で、後宮の女官統率も担当していました。
広元はこの仕事にはあまり長く就いておらず、嘉応二年(1170年)12月5日には権少外記に配置換えされています。
こたらは太政官・事務部局の一つで外記局の役人でした。
直接の上司は清原頼業という人で、外記の最高責任者の職を世襲していた家の人です。
広元はその人の下で、承安二年から三年にかけては伊勢神宮に関する仕事をよく担当していたようです。
その縁で、神宮上卿(伊勢神官に関する諸問題を担当した公卿)を務めていた九条兼実との関わりが増えました。
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九条兼実は、摂関家の超エリートですから、広元から見れば本物の殿上人です。
兼実の日記『玉葉』の中に、広元の記述も度々見られます。
朝廷と幕府のつなぎ役
その後、少しずつ出世していった大江広元。
ときは平家が崩壊しつつあった頃であり、その滅亡前に広元は鎌倉へ下向していたと考えられていますが、詳細な時期は不明です。
広元が史料上で初めて「頼朝のために活動した」と記録されるのは、『吾妻鏡』ではなく九条兼実の『玉葉』でした。
寿永三年(1184年)3月23日の記述でこうあります。
「頼朝が後白河上皇に宛てた奏状の中で、”兼実を摂政・藤原氏長者に推挙する”旨が含まれている、と広元が伝えてきた」
ちょっとややこしいですかね。
少し分解してみると、こうなります。
①頼朝から後白河へ書状が送られた。
②その中に「九条兼実を藤原氏のトップに推挙する」ということが書かれていた
③上記を九条兼実に伝えたのが大江広元だった
前述の通り、兼実は広元よりずっと位が上の頂点貴族でした。
それが今や頼朝からの言伝を持って来られる立場にある。いったいコイツは東国で何をどうしたんだろう……と思ったことでしょう。
あるいは、野蛮な武士集団の中に朝廷のしきたりを知る者がいて、兼実も助かったと感じたか。
いずれにせよ、朝廷との渡り役もしっかり調整しておいた「頼朝の政治力」が発揮された場面ですね。
この辺りが大失敗だった木曽義仲とはモノが違う感じがします。
『吾妻鏡』における大江広元の初登場は元暦元年(1184年)6月1日。
この日、鎌倉を離れる平頼盛への餞別の宴が開かれました。
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平頼盛はその名の通り平家の一員ですが、母・池禅尼が頼朝の助命を嘆願したことや兄・平清盛と不仲だったことなどから、微妙な立ち位置にいました。
そのため寿永二年8月に鎌倉へ身を寄せ、頼朝の客人として遇されていたのです。
しかしこの年、頼盛が正三位・権大納言の官位に復帰が決まりました。こうなると、都へ戻って政務に励まねばなりません。
そういった経緯で、宴が開かれたのです。
吾妻鏡では、この宴で広元が
「平時家とともに頼盛に引出物を与える役を務めた」
と書かれています。
平時家も平家一門に名を連ねる人です。
しかも彼は「平家にあらずんば人にあらず」という発言で知られる平時忠の次男。
普通なら真っ先に処罰されそうなイメージですが、このとき時家は、継母(時忠の二番目の正室)と折り合いが悪く、讒言されて上総に流されてしまっていました。
しかも時家は、蹴鞠や管弦、儀礼などに通じていたためか、あの上総広常に気に入られて娘婿に迎えられた、という経緯があります。
そもそも上総広常も坂東八平氏の出自ですし、当時が単純に
源氏vs平氏(平家)
でもないことがわかりますね。
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公文所別当だが同時に
朝廷における豊富な知識と普段のインテリジェンスから。
源頼朝に信頼された大江広元は、鎌倉幕府の要職に就きます。
元暦元年(1184年)に設けられた公文所の別当(長官)です。
公文所とは、鎌倉幕府の公文書を扱う役所のこと。元々は公家が家政を取り仕切るために設けていた機関を指します。
うってつけの役どころ……というか、そもそもこのために頼朝が呼び出し、広元が呼応したものですね。
他にも、当初の鎌倉公文所には寄人(職員)として、
・中原親能(広元の兄)
・二階堂行政
・足立遠元
・中原秋家
・藤原邦通
などが所属していました。
二階堂行政と藤原邦通は文官タイプで、足立遠元と中原秋家は東国出身の武士です。
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上方の人間だけを揃えてないあたりがミソですね。
同じく元暦元年9月、広元は朝廷から因幡守に任じられていました。
これはどうも頼朝が推挙したわけではなかったらしく、経緯がはっきりしないのですが……鎌倉に下った後も広元が官人であったということを示しています。
また、元暦二年(1185年)5月24日に源義経が書いたとされる「腰越状」の宛名が広元であることからも、彼の立場の重さが垣間見えます。
腰越状の真偽については、近年疑問が持たれていて、その点についてはここでは触れません
広元に関係があるかもしれないポイントとしては、腰越状を実際に書いたとされる義経の右筆・中原信康です。
中原信康は、広元の実家にあたる中原家と同じ名字ですが、信康は中原氏嫡流、広元の家は貞親流という別の系統だとされています。
この信康は、広元がまだ京都にいた頃の安元元年(1176年)正月、都の左京を担当する役人になっているため、広元と面識があっても不自然ではなさそうです。
こういった縁もあったからこそ、腰越状の宛名が広元になったのかもしれませんね。
しかし文治元年(1185年)6月29日、広元は自ら因幡守を辞しています。
広元の任官は頼朝の意向に沿っていたと考えられますが、義経の騒動で任官問題がナーバスになっていた事を考慮して、自ら辞職したのでしょう。
以降、文書上では、広元を指して「因幡前司」と書かれることが多くなります。
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