承久3年(1221年)8月9日は三善康信の命日です。
古くから源頼朝に仕え、最終的には【承久の乱】まで見届けた、鎌倉幕府の生き字引のような人物。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では小林隆さんが演じられましたが、正直、畠山重忠のように華のある武将ではなく、本職は文官という地味そのもののタイプですね。
しかし、承久の乱に際しては、北条義時と泰時の背中を押すような役目も担っていました。
そんな三善康信は史実でどんな人物だったのか?
その生涯を振り返ってみましょう。
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三善康信の出自は明法家
三善康信は保延六年(1140年)、太政官書記を務める明法家の家に生まれました。
明法家とは「明法道=律令法」を修めた人のこと。
いかにも堅苦しく、とっつきにくい感じがしますかね?
太政官は、司法や行政、立法といった統治の実務機関であり、現代風に言うなら、康信の家は「代々官僚を務めるマジメな一族」でしょうか。
しばらく太政官に務めた後、応保二年(1162年)に正六位上・中宮少属となりました。
この頃の中宮は藤原育子、天皇は二条天皇で、注目は“応保二年”という年。
平治元年(1160年)末に【平治の乱】が起き、平家が急速に政治力を付け始めた時期でした。
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となると、官僚だった康信にも平家の影響が……と思うところですが、実はそうでもありません。
康信の母の姉が源頼朝の乳母であり、伊豆へ流された後も支援を続け、月に三度も頼朝へ連絡していたといいます。手紙一つ届けるにも日数のかかる時代のことですから、かなりの頻度でしょう。
平清盛は、そんな彼らを見て見ぬ振りをしていたのか、お咎めを受けることもなかったようです。
承安二年(1172年)、清盛の娘・平徳子が中宮になりました。
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その翌年、康信の主人である育子が崩御したため、康信は散位(位階は持っているが官職についていない状態)となってしまっています。
決して豊かとはいえない状況で、康信は頼朝への音信は欠かしませんでした。
そして治承四年(1180年)5月、時代が動きます。
以仁王が平家打倒を掲げて挙兵したのです。
清和源氏の源頼政が協力していたこともあり、他の源氏の者たちにも追討令が下されると、康信は頼朝に知らせ、一刻も早く東北へ逃げるように勧めました。
わざわざ自分の弟である三善康清に仮病を使って仕事を休ませ、伊豆への使者として遣わしたとか。
もしかすると、京都が再び戦乱に巻き込まれることを危惧して、弟に血筋を残させようとしていたのかもしれません。
いずれにせよ康信は、頼朝に挙兵を進めたわけじゃない。
にもかかわらず頼朝は逃げるどころか、逆に自ら平家打倒の兵を挙げて【石橋山の戦い】へ。
大事な緒戦で大敗してしまいますが、結果的に関東武士たちの協力を得られることとなり、房総半島をまとめ上げて再起しました。
康信はこの間、京都にとどまっていました。
養和元年(1181年)頃に出家して”中宮大夫属入道善信”と名を改めています。
そのため『吾妻鏡』をはじめとした記録類では”善信”と記載されていることが多いのですが、この記事では”康信”で統一させていただきます。
朝廷や寺社との交渉あるいは文書作成など
有力武士たちの助力を得た頼朝は鎌倉へと進み、その後、【富士川の戦い】で平家に快勝すると、いったん関東の地固めにかかっていました。
その間に平清盛が病死します。
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一応、父の仇討ちを果たしたことになる頼朝が、講和を申し出こともありましたが、平家方が断固拒否。
今際の際に清盛が「頼朝の首を我が墓前に供えよ」と言い残していたといい、依然として京都には不穏な空気が漂っていました。
治承五年(1181年)閏2月、三善康信から頼朝への手紙の中で
「世情が落ち着いてきたら、鎌倉へ参りたいと思います」
と記されています。
康信は、頼朝への連絡を続けながら、慎重に好機を待っていて、同年、治承五年3月の手紙では、
「甲斐源氏の武田信義に、頼朝様への追討が命じられるようです」
と知らせています。
これを受けた頼朝は、信義の真意を問いただすべく鎌倉へ召喚し、直接会ったことで当面の危険はないと判断したのか、この件はすぐに収まりました。
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頼朝にとって康信の情報は非常に貴重で、かなり信頼していたようです。
京都の情報提供者から、鎌倉での政務担当へ。
頼朝政権で重要なポジションを担う三善康信は、いつ鎌倉へ渡ったのか?
吾妻鏡では、元暦元年(1184年)4月となっています。
しかし、それより前の養和二年(1182年)2月、頼朝が伊勢神宮へ奉納する願文については、康信が草案を作っています。
もともと10日に一度は連絡をしていた間柄ですから、草案を依頼すること自体は難しくありません。
しかし、余計な手間を考慮しても康信に作らせたというのは、信頼の現れでしょう。
康信の鎌倉到着は、元暦元年(1184年)4月14日とされています。
翌15日、頼朝が鶴岡八幡宮に詣でた後、回廊で康信と対面し、
「この鎌倉に住んで、武家の政治や事務を手伝ってもらいたい」
と依頼され、鎌倉に移り住むことを決めたのだそうです。
これまでの経緯を考えれば、どのような仕事を任されたとしても、康信は鎌倉にとどまったでしょう。
こうして康信は、大江広元らと共に頼朝の政務を補佐するようになります。
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主に西国や朝廷、寺社に関する交渉・外交に関する場での協議だったり。
文書を作る際の草案・清書をした人物の一人だったり。
いかにも文官という働きをしており、さらには公家出身らしく、縁起を重んじるエピソードや、多芸ぶりがわかる逸話も残されています。
三善康信の人となりがわかるエピソードを2つほど見てみましょう。
流行り歌や催馬楽を歌ったことも
文治二年(1186年)11月5日のこと。
頼朝が義経と決裂し、追手をかけていた頃です。
当時、義経に味方した者や、静御前などは捕えたものの、本人は一向に捕まっていませんでした。
頼朝はいらだち始めていたらしく、関東申次(幕府と朝廷の連絡役)を務めていた公家の吉田経房にこんな手紙を送っています。
「公卿や役人たちが鎌倉武士を嫌って、義経に協力しているのではないか? 藤原範季と仁和寺宮守覚法親王にその疑いがある」
藤原範季は藤原南家の人で、後白河法皇の側近の一人。
娘の重子が順徳天皇を産んでいるため、皇室の外戚でもあります。
源氏との接点としては、頼朝の弟・源範頼を養育していた時期があり、以仁王の協力者だった源頼政と従兄弟だったことが挙げられます。
この時期は後白河法皇の命で義経を匿っていたので、頼朝の疑念はもっともでした。
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一方、守覚法親王は後白河法皇の皇子で、嘉応元年(1169年)に仁和寺の門跡となっていた人です。
確たる記録がないので、義経との接点は大々的なものではなかったと思われますが、著書の一つ『左記』で義経を高く評価していました。
日頃の言動に義経びいきなところがあったのでしょうか。
康信は、これらの人々を義経派であると疑う頼朝に対し、次のように諭しています。
「義行という名は、読み替えると『良く行く』になります。だから上手く隠れて捕まらないのでしょう」
突然出てきた“義行”というのが、わかりにくいと思うのですが……。
当時の義経が記録上は”義行”や”義顕”と改名させられたことによります。
ややこしいわ~!
と思ったのは当時の人もそうだったようで、九条兼実が”義経”に戻すよう命じたと言います。
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もう一つのエピソードは文治二年(1186年)12月1日、吾妻鏡の記述です。
この日、千葉常胤が下総から鎌倉へやって来たので、宴会が開かれることになりました。
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酒が回ってから常胤が舞を披露し、康信が流行り歌や催馬楽を歌ったのだとか。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』ではいかにも地味そうなおじさんキャラだけに、意外な芸達者っぷりですよね。
また、当人はかなり記憶力も良かったようで、こんな話も残されています。
文治五年(1189年)3月5日に「平時忠が亡くなった」という知らせが鎌倉に届いたときのこと。
「平家にあらずんば人にあらず」という発言で有名な人ですので、現代ではあまり良いイメージがないかもしれません。
しかし、政治家としてはなかなかの人。
例えば時忠は、壇ノ浦で捕虜となった後、義経に接近して庇護を得るため娘を差し出したり、それを頼朝に見咎められると大人しく配流先の能登に行ったり、”これ以上意地を張るとまずいライン”を見極めて動いていたような印象があります。
頼朝もその知恵者ぶりには一目置いていたらしく「朝廷にとっては惜しむべき人だ」と言っていたそうです。
人が亡くなれば、享年に関する話題もつきもの。
しかし鎌倉の人々は時忠の年齢を知らなかったらしく、康信に尋ねたのだそうです。
康信によれば「62歳のはずです」とのこと。
時忠の生年は現代でも不明のため、享年には60説もありますが、大きく外れてはいませんね。
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