牧氏事件(牧氏の変)

父の北条時政と息子の北条義時(左)が対立/国立国会図書館蔵

源平・鎌倉・室町

牧氏事件(牧氏の変)で時政が新将軍擁立を画策!対立した義時との決着は如何に?

優しげな青年だった北条義時が、みるみるうちに顔色悪くなり、謀略謀殺なんでもアリの主人公に成長していく――。

殺伐とした大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の中でも、とりわけドロドロしていたのが

でしょう。

この事件、一言でいえば

(父)北条時政
vs
(子)北条義時

の親子対決であり、例えば国史大辞典を参照に少し詳しく見てみると、こうなります。

北条時政と後妻・牧の方が、三代将軍・源実朝を殺害し、平賀朝雅を新将軍にしようと画策。

それを北条政子と北条義時のきょうだいが阻止し、最終的に政子と義時が勝利すると、時政は排除された。

親子間ですら苛烈な権力争いが勃発し、この一件を経て北条義時が執権となり、父の時政は排除されるのです。

それにしても、なぜ平賀朝雅は将軍候補に推されたのか?

いったい誰なの?

と申しますと、朝雅は新羅三郎義光を祖とする源氏一門であり、血統的には問題なく、かつ北条時政と牧の方の娘を妻としていたので、彼らは利害関係が一致していました。

※以下は新羅三郎義光の関連記事となります

源義光
武田氏 佐竹氏 小笠原氏らを輩出した甲斐源氏の祖・源義光はどんな武士だった?

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京都でも一定のポジションを確保しており、国史大辞典では【牧氏事件】ではなく【平賀朝雅の乱】と記載。

事件は、元久2年(1204年)閏7月19日に時政らの企みが発覚し、翌20日に時政は出家させられた上で伊豆へ追いやられています。

大河ドラマでも終盤に至る過程で大きな契機となったこの事件、いったい史実ではどう展開されていくのか?振り返ってみましょう。

 


牧氏事件の構図

政子と義時は、時政の子ではありますが、後妻・牧の方との血縁的繋がりは無い。

こうした要素を踏まえ、あらためて図式にすると、以下のようになります。

◆牧氏事件(牧氏の変・平賀朝雅の乱)

【勝者】
北条義時
北条政子
vs
【敗者】
北条時政
牧の方(時政の後妻)
平賀朝雅(時政と牧の方の婿)

実は時政と牧の方の間には北条政範という息子もいて、義時ではなく政範を北条氏の後継にしよとしていたのでは?という見立てもあります。

しかし政範は、この事件の前に亡くなっていて、鎌倉に翳を落としていました。

さらに、牧氏の変の背景には、もう一つ大きな時政vs義時のトラブルがあります。

畠山重忠誅殺事件】です。

平賀朝雅が畠山重保(重忠の息子)と酒宴の席でケンカをし、それを牧の方に訴えたところ、時政によって畠山重忠と重保の親子が滅ぼされたというものです。

ドラマでは、畠山が北条政範の暗殺犯として仕立て上げられ、それが畠山重忠殺害の原因とされていましたね。

義時と政子はこの処断に大反対でした。

そして、そのわずか二ヶ月後に、前述の通り「時政と牧の方が実朝を殺害して平賀朝雅を将軍にすることを画策した」のですから、ついには黙っていられなくなるのです。

 


実朝を保護した義時と政子は

義時と政子は、源実朝(政子にとっては次男)を保護。

時政は御家人たちに挙兵を促すも、主要人物の多くは義時サイドにつき、結果、時政は追いやられ、京都にいた平賀朝雅も討たれて義時の執権体制が確立します。

いささか駆け足で進めて参りましたが、以上が牧氏事件(牧氏の変・平賀朝雅の乱)のあらまし。

今回、こうした内容をキッチリと解説していただくため、三笠書房さんの許諾を得て一冊の書籍をお借りしてきました。

それがコチラです。

三笠書房『執権 北条義時 危機を乗り越え武家政治の礎を築く』〈知的生きかた文庫〉(→amazon

著者の近藤成一氏は、東京大学史料編纂所の教授で、現在は同大学の名誉教授。

中世史専門であり、本稿では【畠山重忠誅殺事件】の項から紹介させていただきます。

以下、三笠書房『執権 北条義時 危機を乗り越え武家政治の礎を築く』〈知的生きかた文庫〉の本文へ。

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