幕末から明治にかけて生きた人々には、時代の荒波に呑まれてしまった辛い過去や事情もあります。
『るろうに剣心』の登場人物は、そんな想いとともに生きている――本稿では【会津藩】の歴史を背負った高荷恵(たかに めぐみ)を考察してみたいと思います。
【TOP画像】るろうに剣心 明治村 コラボ コースター 高荷恵(→amazon)
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婀娜(あだ)っぽい大人の女・高荷恵
婀娜(あだ)っぽいというのは、今はあまり使われませんよね。
要はセクシーで魅力的ということ。
大人でクールなヒロインである高荷恵――初登場時の年齢が22歳だと気付いたときには、驚愕してしまった方もいたのではないでしょうか?
江戸時代は初婚年齢が若く、しかも東北地方となるとその傾向は強まります。
明治時代、アメリカ留学から帰国した会津藩出身・山川捨松(のちの大山捨松)は、親から「もう売れ残りだ」と言われると嘆いておりました。
恵も、そういう感覚があったとしてもおかしくはありません。
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ちなみに身長166センチ45キロというのは、当時としてはかなりの長身、かつ低体重です。
幕末会津の新島八重は、もっとマッチョでした(当時としても規格外)。
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こういう女性の身長体重、あるいはスリーサイズ設定は、連載当時の漫画やゲームではよく見受けられました。
健康を損なうほど不自然な数値であったり。女性キャラクターばかりだったり。
どう考えてもおかしな数値もあるので、こうしたものはあくまでお遊びと流しましょう。
高荷恵は、神谷薫と比較すれば大人っぽく、セクシーに思えます。けれども設定を見ていけばまだ若く、家族を失った不安定な女性であることは確かです。
やたらと大人っぽい扱いをされますが、左之助や弥助はともかく、剣心より年下なのですね。
これも連載当時によくあった話です。
複数名の女性がいると、年上女性がおばさん、色っぽいという設定をされることがよくある話でした。
そういう漫画のお約束を抜きにして、会津出身でこの境遇でありながら、セクシーであることは正しいのか?
野暮は承知でちょっと突っ込んでみましょう。
高荷家は脱藩しなければいけなかったのか?
恵が史実として整合性があるのか?
そう考えると本当にややこしく、無駄に喧嘩を売っていると思われたくはないのですが……。
まずは基本設定に対する違和感をまとめてみます。
・家族総出で脱藩する必要性はあったのか?
恵の高荷家は、先進的であるがゆえに、西洋の医術を学ぶために脱藩した――そんな設定があります。
幕末の会津藩は、京都守護職のせいで留守を守る妻子が苦労したことが特徴ですので、むしろ父だけ脱藩の方がリアリティがあったと思えます。
次に、脱藩を過小評価しすぎているとも感じます。
そんなエキセントリックな手段を取る前に、どうして周囲に相談しなかったのか。いくら会津藩が保守的と言っても、理解者はいるでしょう。
・西洋医術を学ぶために脱藩する必要はあったのか?
高荷家は、別に脱藩する必要はなかったと思います。何か隠したい理由があれば別ですが。
漢方医が西洋の医術をタブー視したとは言えないのです。
日本の医学は、江戸時代以降、蘭方=オランダ経由の医学を取り入れています。杉田玄白が典型例です。
確かに会津藩には、御典医が保守的であったため、起きなくてもよい悲劇が起きてしまいました。
松平容保の正室・敏姫は御典医の反対で種痘摂取ができず、天然痘で亡くなってしまったのです。
ただ、これは該当御典医が頑迷であった個人の特性があると思えてきます。彼女の悲劇から学ぶように説得することもできたはずでしょう。
・会津藩には、西洋医術の重要性を理解する人がいた
こう書くと、憶測だけどものを言っているように思えるかもしれませんが、実はそうした史実はあります。
幕末の会津藩では進歩的な家老・山川重英(浩・健次郎らの祖父)らによって種痘接種が取り入れられ始めていました。
山本覚馬と八重の母も、種痘の有用性を説き、周囲に勧めていたそうです。
「脱藩するまでもなく、山川さんに相談したらよかんべ!」
こうなってもいいと思うんですけれども。
余談ですが、そんな山川家の浩と健次郎は、斎藤一の親友です。
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あまり感じられない会津設定
高荷恵周辺の設定は、フィクションで増幅された会津藩のイメージありき。あまりリアリティがないと感じてしまいます。
恵そのものが、明治の会津藩ルーツ女性のイメージから見て、かなり隔たりがあるのです。
2013年大河ドラマ『八重の桜』もあってか、明治の会津女性・八重が描かれる機会が増えました。
結果、恵はいろいろと粗が目立つ感があります。
高荷恵像への違和感の背景には、和月先生が大好きである司馬遼太郎の幕末作品に通じるものも感じます。
司馬は新選組、特に土方歳三には愛着があったとは思えるのですが、そんな新選組を預かっていた会津藩に対しては、嫌悪感があったとは思える箇所が多いのです。
『王城の護衛者』という松平容保を扱った傑作短編もあります。
会津若松市には、司馬遼太郎文学碑もあります。
◆会津若松商工会議所(→link)
司馬は何も、会津藩を常に悪く描いていたというわけでもない。会津藩の苦境を知らしめた功績もある。
けれども徳川家康同様、うっすらとつきまとう嫌悪感はあると感じます。史実と比較すると、それが目立つのです。
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私一人だけの妄想とも言えません。
一例として、幕末会津藩家老・田中玄宰の子孫である田中清玄をあげますと、彼は司馬の作品に対して「薩長を利するものである」という痛烈な批判をしています。
高荷恵をまとめると、司馬ワールドの幕末価値観が根底にあると思えてきます。
◆頑固で保守的な会津藩
◆進歩的な高荷家は脱藩する
◆そんな恵は、明治としては斬新な女医になる!
そういうテンプレートですね。ものすごく意地悪な言い方をしますと、後進的な会津藩の例外的存在としての目立たせ方ですね。
たとえ彼女が魅力的だろうと、その輝きの背景としてくすんでしまう会津藩にはどうなのか?
史実として、ともかく金がなく、会津藩の身分制度や保守性が問題であったことは確かですが……。
これは和月先生一人の問題でもなく、当時の世界観やメディアの限界だとも思います。
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