殺伐とした世界観で、次から次へと登場人物が亡くなっていく大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。
「そんなことは最初からわかってただろ」
そうツッコまれると返す言葉もないのですが、それでも、この方だけは亡くならないで欲しかった!と願いたくなる武士がいます。
和田義盛です。
劇中では、横田栄司さんが演じる猪武者――。
いつでも猪突猛進の「バカで憎めないキャラ」であり、畠山重忠や源実朝とのやりとりは何ともホッコリできたのに、結局、北条義時と対峙して涙無しには見られない終わりを迎えてしまう。
そんな義盛は、史実でどんな人物だったのか?
和田義盛の生涯を振り返ってみましょう。
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三浦一族の有力者・和田義盛
和田義盛が生まれたのは久安三年(1147年)のこと。
父は杉本義宗。
名字が違っていてややこしいのですが、さらにもう一つ別の名字「三浦」が絡んできます。
父の杉本義宗は、三浦義明の長男でした。
つまり和田義盛は、三浦氏の一族であり、同氏の嫡流になっても不思議ではない立ち位置だったんですね。
【祖父】三浦義明
│
【父】杉本義宗
│
【子】和田義盛
実際の三浦氏は、三浦義澄(ドラマでは佐藤B作さん)が家督を継承し、そのまま息子の三浦義村(山本耕史さん)に引き継がれましたが、慈円の記した『愚管抄』では和田義盛を三浦氏の長と見るような記述があり、なかなか微妙な関係だったと思われます。
整理すると
・三浦氏の有力一族である和田義盛
・相模国三浦郡和田を本拠地としたから和田氏を名乗った
まず、この二点を押さえておけば、基本的な出自は問題ないかと。
なお、三浦氏そのものは坂東八平氏の出身です。
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同じ平氏である平清盛に忠誠を尽くすような間柄ではなく、義盛の祖父である三浦義明は、頼朝の父・源義朝の後ろ盾だったとされています。
義明の娘が義朝に嫁いでいて、源氏とは切っても切れない間柄だったのです。
石橋山の戦いに参加できず畠山軍と遭遇
そうした経緯がありましたので、治承四年(1180年)8月、平家討伐を掲げて挙兵した源頼朝に、三浦氏や和田氏が呼応するのも自然な流れでした。
『鎌倉殿の13人』でも和田義盛と共に山本耕史さん演じる三浦義村が参加していましたね。
しかし、彼らが丸子川(酒匂川)まで来たところで、トラブルに直面。
これまたドラマでもクローズアップされたように、川が増水していて、渡ることが出来ませんでした。
旧暦8月はおおよそ新暦9月、雨が多い台風シーズンですから、仕方のないことでしょう。
回り道すべきか、水が引くのを待つべきか。
逡巡している間に、石橋山の戦いが発生してしまい、
「頼朝様が敗北し、生死もわからぬ状況だ」という知らせが三浦・和田両氏のもとへ届けられました。
仰ぐべき旗頭の行方が不明では、これ以上、先へ進んでも意味がない……。
そう考えた義盛たちは、一旦地元へ戻ることにしたのですが、ここでトラブルに直面してしまいます。
平家方の畠山重忠軍と遭遇したのです。
ややこしいことに和田義盛と三浦義村、そしてこの畠山重忠は従兄弟同士でした(下記の図をご参照ください)。
両者の間に緊張が走ります。
当初は
「源平を通して敵味方に分かれたとはいえ、我らは親戚同士で直接の恨みはない。ここでわざわざ血を流す必要もないだろう」
と話がまとまりかけたのですが、遅れてやってきた和田義盛の弟・和田義茂が事情を知らず、畠山の陣に突入してしまったのです。
【小坪合戦】と呼ばれます。
程なくして誤解であるということがわかり、戦闘は小規模で終わったものの、三浦・畠山双方に数十人ずつの死傷者が出たといいます。
事はこれで済みませんでした。
房総で助力を得て態勢を建て直す
三浦一族が本拠の衣笠城へ戻った数日後、畠山軍が攻め寄せたのです。
双方よく戦ったようですが、三浦氏側は小坪合戦での疲弊が抜けてなかったようで、やむなく城を捨てて海へ逃げることになりました。
本拠を捨てて命を取るというのは、武士としてはかなり思い切った判断です。
最後の意地として、当時89歳という高齢だった三浦義明が
「我が生命を頼朝様に捧げ、子孫の繁栄を祈る」
とし、一人で衣笠城に残って討ち死にしたとか……。
三浦氏一門がいかに頼朝へ期待をかけていたかがわかる逸話ですね。
一方、畠山重忠としても、母方の祖父(三浦義明)を死に追いやったのですから、たとえ平家サイドの命令で衣笠城に攻めかかっていたとしても、心中穏やかではなかったでしょう。
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義盛たちは無事海に逃れ、幸運にも北条時政と合流することができました。
時政は石橋山の戦いで敗れた後、散り散りになる直前まで頼朝に同行していたとされますので、当時の状況を詳しく義盛らに伝えたことでしょう。
そして房総半島に着くと、後から到着した頼朝を揃って出迎えました。
態勢を立て直すため、頼朝は房総半島の武士たちに協力を取り付けようと考えます。
義盛は、房総半島で最も有力と見なされた武士の一人・上総広常への使者を命じられました。
大河ドラマでは佐藤浩市さんが演じ、壮絶な死で話題になった武士ですね。
このときの広常は、なかなか挙兵に応じず、腰を上げたときも
「もしも頼朝の器量が凡人程度のものであれば討ち取ってやろう」
と考えながら、頼朝と対面して、野心を改めたといいます。
程なくして、畠山重忠など、石橋山の戦いでは平家方だった武士たちも源氏方に転じるようになりました。
小坪合戦や衣笠城の戦いの記憶も新しかったと思われますが、三浦・和田氏と畠山氏の間で口論や諍い事が起きたという話はありません。
ドラマでは何かと牽制し合う義盛と重忠が、ちょっとしたホッコリシーンになっているのも、そういう背景を汲んでのことでしょうか。
義盛は他の武士たちとともに頼朝に従い、鎌倉へ入った後に【富士川の戦い】で平家軍を打ち破ります。
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また、このころ源義経が頼朝に対面していますが、義盛はその場に居合わせなかったようで、特に記録がありません。
佐竹討伐
坂東武者たちの助力を得て、鎌倉入りした頼朝。
さっそく西へ向かって平清盛を討伐……とはならず、まずは関東での足場固めに取り掛かりました。
上総広常や千葉常胤、そして義盛にとっては本家筋である三浦義澄の意見を採用したのです。
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彼らからすれば、
「平家を討つことに依存はないが、その間に自分の領地が脅かされてはたまらない。鎌倉の安全もまだ保証できたとは言い難い」
というところでしょう。至極当然の話です。
一方、頼朝にしてみても、
「ご先祖様と同じように、武士たちの所領を安堵した上で、平家打倒の際には恩賞を与えなければならない」
という事情もあり、彼らの意見を押しのけて西上を急ぐことはできません。
そもそも彼らには、背後を脅かす存在がいました。
常陸の佐竹氏です。
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佐竹氏は平家方、かつ奥州藤原氏との繋がりもあり、武力・財力を備えた大勢力。
上総氏や千葉氏の主戦力が西へ向かえば、途端に攻め込んでくるリスクが大いにあります。
とはいえ、正面からの大戦に挑んで、兵や物資を損耗するのは避けたいところ。
そこで広常が、佐竹氏の力を削ぐための計略を用います。
佐竹氏当主の嫡男・佐竹義政とその弟・秀義と旧知の間柄だったため、会見を申し入れたのです。
当日、兄の義政だけがやって来ると、広常は「人に聞かれたくない話があるので、少し離れよう」と誘い出し、お供の者たちから離れた橋の上で義政を殺害。
佐竹氏の家督は急遽、佐竹秀義が継ぎ、金砂城(かなさじょう)に籠もって防戦態勢に入りました。
源氏軍が攻め寄せるも、なかなか押しきれない。
そこで上総広常が進言します。
「秀義の叔父である佐竹義季をこちら側に引き入れ、佐竹軍の気勢を削ぎましょう。恩賞を約束すれば、きっと降ってくるはずです」
その通りにすると、義季はあっさり源氏軍につきました。
義季が、広常を金砂城の裏手に案内し、広常軍が城内へ呼ばれると、秀義以下の佐竹軍も大いに動揺。
取るものもとりあえずといった様相で、何処かへ逃げ去っていったといいます。
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