大河ドラマ『鎌倉殿の13人』はじめ、源平合戦ものを見ていて、ちょっと引っかかること。それは……。
なぜ坂東の平氏は、同族である平清盛の味方をしないの?
ということではないでしょうか?
例えば佐藤浩市さんが演じていた上総広常や、岡本信人さんの千葉常胤。
あるいは頼朝の挙兵時から付き添った土肥実平も、元々は平氏の出自だったりします。
彼らは「坂東八平氏」と呼ばれ、関東では著名な一族です。
だからこそ、余計に源氏に付いたり、立場をコロコロ変えたりするのがどうしても腑に落ちなくなってくる。
一体彼らは何を考え生きていたのか?
坂東八平氏を中心に、当時の武士たちの在り方を振り返ってみたいと思います。
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坂東八平氏
一般的に坂東八平氏とは以下のメンバーを指します。
上総氏(上総)
千葉氏(下総)
三浦氏(相模)
土肥氏(相模)
秩父氏(武蔵)
大庭氏(相模)
梶原氏(相模)
長尾氏(相模)
上総広常や千葉常胤だけでなく、三浦義澄(息子の三浦義村)も畠山重忠(秩父氏の一族)も梶原景時もそうだったんですね。
最後まで清盛に味方して斬首に処された大庭景親もそうです。
源平合戦とは、血統に依るものではなく、利害関係や様々な思惑から敵味方に分かれ、各自、身の処し方を変えていったのです。
ドラマの中でも「坂東武者は一族と所領のために戦う」というセリフがありましたが、あくまで「生きるため」だったんですね。
京都の伊勢平氏である平清盛とはあくまで別物。
坂東を治める武士として彼らは存在していました。
感覚的にややこしいかもしれませんが、それが現実でした。
では、なぜそうなったのか?
ややこしく曖昧な日本の武士
源氏にせよ、平氏にせよ。
皇族の血を引くとされる者たちが、地方を治める。
それが武士の興り……とは言いながら、実は彼らの起源は曖昧で、非常にわかりにくいものです。
武士はどこから来たのか?というテーマで一冊の本になるほどで、よろしければ以下の書評記事も併せてご覧ください。
誰も知らないサムライの根源に迫る『武士の起源を解きあかす』が読み応え抜群だ
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この辺、中国史と比較すると、日本の特色が際立つかもしれません。
中国王朝の場合、皇帝が任じた諸侯王(しょこうおう)が武力を持ち、地方を支配しました。
こうした諸侯王による反乱が問題視され、日本がお手本にした唐では、皇族の血統によらない節度使(せつどし)が置かれますが、これまた【安史の乱】により甚大な被害を受け、問題視される。
唐の後の王朝・宋は文弱とされ、外敵からの侵攻に苦しめられました。
武力を持つ地方勢力を置けば反乱が起きて危険だ。
かといって武力を削減すれば、外敵に襲われる――そんな綱渡りが中国王朝の宿命であり、難しい宿命があったのです。
一方、日本ではどうか?
武力に悩む中国と比較すると、日本はゆるやかな体制が平安末期まで続いていたように思えます。
権力者が変わっても、その都度、「はい、君たち一族は武器を捨てなさい」と武力を奪われたりはしない。
確かに、平将門のように反乱を起こす者はいましたが、そのまま別の王朝が建てられたりすることなく結局は鎮圧され、地方でも中央でも、武士たちは武士たちでいた。
そこで、あらためて坂東武者に注目です。
京都の朝廷は、坂東の武士をそこまで厳しく統制していません。
京都近辺の武士も、特に坂東のことなど気にしていませんでした。
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