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【中原親能】
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頼朝次女・三幡の死
これは中原親能に限ったことではないのですが、頼朝死去前後の動向についてはあまり記録がありません。
正治元年(1199年)4月、十三人の合議制メンバーには名を連ねていながら、当日は京都にいたようです。
しかし、5月に入って悲報が届きます。
数え14歳で入内も内定していた三幡(さんまん・頼朝の次女)が、明日をもしれない病体だというのです。
とはいえ京都で親能が受け持っていた仕事は、そう簡単に放り出せるようなものでもありません。
なんとか目処をつけて鎌倉へ急ぎ、到着したのが6月25日。
翌日、京都から半ば無理やり下向させられた医師の丹波時長が、そそくさと帰っていきました。
「三幡には回復の望みがまったくなかったので、時長はもっと早く帰りたがっていた。親能が戻ってくるのを待っていたため、この日まで出発が延ばされた」
と記録されています。
当時の上方の人々にとって、鎌倉は「未開の地よりはちょっとマシ」程度の場所だったのでしょう。
親能の到着から5日めの6月30日昼頃、三幡は息を引き取りました。
遺体は、当日の午後八時頃に、鎌倉・亀ケ谷にあった親能邸近くの持仏堂へ葬られたそうです。
その死が堪えたのでしょう。親能は姫の死に殉じて髪を落とし、以降は「掃部頭入道寂忍」と名乗るようになります。
自分の邸宅近くに葬ったことや法名の字面に、親能から姫への感情が現れているようにも思えますね。
親能には実子が一人、猶子が一人いましたが、いずれも男子であり、娘はいませんでしたので、三幡を実の娘のように思っていたのかもしれません。
年齢差からすると、孫娘といっても過言ではありませんし。
ただし、出家といっても、すぐに隠居・引退とならないのが、この時代のスタンダード。
正治二年(1200年)3月29日に、京都でこんな事件がありました。
事の起こりは、前若狭守保季という公家が、中原親能の部下である吉田親清の妻に暴行を働いたことです。
夫の親清は、六波羅の職場に行っており、帰宅してから事件を知って、当然のことながら激怒。
刀を持って保季を追いかけ、そのまま斬り殺してしまったので、在京中の御家人・佐々木広綱の所へ自首したといいます。
そこへ検非違使がやってきたので、親清を引き渡そうとしたところ、彼は馬に飛び乗って逃げてしまったとか。
さらに保季の父・中務少輔定長が朝廷へ訴え、朝廷からも広綱に呼び出しがかかるという、実にややこしい状況になりました。
広綱は「もしかしたら関東まで逃げたのかもしれない」と考え、直ちに鎌倉へ連絡し、その知らせが届いたのが4月8日。
2日後には親清が幕府へ自首してきたため、親能と広元は源頼家に取り次ぐ前に、北条義時に意見を求めました。
義時は「親清を上方へ差し出すかどうかは、頼家様がお決めになってください、と伝えてほしい」と頼みました。
「陪審の身でありながら、殿上人を殺害するなんて身の程知らずにもほどがある。ましてや白昼に殺人を犯した罪は重い。すぐに検非違使へ引き渡し、死罪にすべきだ」
これを後になって聞いた広元は、感動して涙した……ということになっているのですが、少々ツッコミどころがあります。
泰時は吾妻鏡の中でかなりの高評価をされている人物ですが、このときの発言はいかがなものでしょう。
そもそも、親清の妻に暴行を働き、白昼堂々罪を犯したのは保季です。
細かい事の経緯を知らなかったのか、あるいは「武士は朝廷・公家より身分が低いのだから、何をされてもおとなしくしているべき」と思っていたのでしょうか。
ちなみに、保季は美男だったそうで「死に顔まで美しかったので、人々が見物しにやってきて涙した」なんて話も。
これは全くの私見ですが、その美貌に自信を持ちすぎて親清の妻を口説こうとし、彼女が受け入れなかったので乱暴に及んだのでは?
妻や第三者の証言等が載っていないので、あくまで推測ですが。
さらに細かいことを言うと、広元は後年、自ら「成人してから涙を流したことがない」と言っていたほど冷静な人です。
そういう人が、このことで落涙するほど感動するのも妙な話です。
吾妻鏡の脚色の一端が垣間見える記述かもしれません。
二代目頼家や三代目実朝とは?
この後も中原親能は上洛したようで、正治三年(1201年)2月には、次の様な報告を鎌倉へ届けています。
「土御門天皇が後鳥羽上皇の御所に行幸されたとき、城長茂(じょうながもち)の軍がやってきて、倒幕の宣旨を求めていた」
土御門天皇と後鳥羽上皇と言えば、後の【承久の乱】で流罪とされるゆえ、その相談か?
そう思ってしまうかもしれませんが、この段階では、天皇も上皇も賛同するどころか、逆に城長茂に対して討伐の宣旨を出しました。
今日では【建仁の乱】と呼ばれている騒動です。
そもそも長茂は、梶原景時の庇護を受けていた越後の武士でした。
それだけに正治2年(1200年)1月に決着していた【梶原景時の乱】に納得がいかず「帝の後ろ盾を得て幕府を倒そう!」と考え、武力行使に出たのです。
大番役(京都警護)のため在京中だった小山朝政の邸宅も襲撃されましたが、当時、朝政が不在だったため、こちらの攻め手もすぐに引き上げて潜伏。
長茂の地元・越後でも縁者たちが挙兵しており、広義での【建仁の乱】は同年5月まで長引きました。
中原親能はあくまで文官、しかも出家の身かつ在京中ですので、戦には関与していません。
建仁二年(1202年)に源頼家が「(亀ケ谷の)親能邸で蹴鞠をやろう」と出かけた話があります。
まずは1月29日に行こうとしたところ、このときは源氏一門・源義重(新田氏初代)が亡くなったばかり。
そのため、北条政子は頼家に「こんなときに遊び歩くなんて、人から後ろ指を指されてしまいますよ」と言って止めました。
しかし頼家は「蹴鞠をするのに、世間の言うことを聞く必要はありません」と反抗。
結局「出掛けにケチがついた」という理由で、この日は出かけるのをやめにしたそうですが、しばらく経った同年4月13日、頼家は改めて親能の邸へ行って蹴鞠をします。
その場所が、三幡の眠る持仏堂のそばだったのです。
これまた私見ですが、もしかすると、頼家は最初から妹の墓参りのため親能邸へ行きたがったのかもしれません。
ただ、性格的に、素直にそうとは言えなかったのでは?
なぜこんなことを思うかと言いますと、蹴鞠だけなら親能邸にこだわる必要がないからです。
頼家は公家出身者とは比較的うまく付き合っており、三善康清邸で蹴鞠をしたこともありました。
つまり、他に目的(三幡の墓参り)があったと考えたほうが自然であろうかと……。
妹の墓前で頼家が何を思ったか。
親能がどのように受け止めたか。
大河ドラマで取り上げられるほどのエピソードではありませんが、源頼家と中原親能の関係も想像できて興味深い話です。
頼朝亡き後の頼家時代、中原親能は目立つ存在ではありません。
三代目・源実朝の時代になっても、京都での仕事は特に変わっていません。
学問と芸術好きの新将軍のため、将門合戦の絵を絵師に手配させて贈り、大変喜ばれた……というのが、唯一個人的に動いた出来事だと思われます。
御家は戦国大名・大友氏に繋がった
体は最晩年までしっかりしていたようです。
亡くなる一年半ほど前の建永二年(1207年)9月には鎌倉へ罪人を連行し、翌月、自力で京都へ帰っています。
そして承元二年12月18日(1209年1月25日)に永眠。
享年66でした。
親能の実子・季時についてはあまり逸話がないのですが、猶子である大友能直の血は、豊後の戦国大名・大友氏に繋がっていきます。
能直が九州に根付いたのは、親能の所領を受け継いだからなのだとか。
そこから数百年経った戦国時代に、
・中原親能の猶子から始まった大友氏
・大江広元の遠い子孫である毛利氏
が衝突するのが、なんとも皮肉のような、歴史の醍醐味のような。
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長月 七紀・記
【参考】
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon)
関幸彦/野口実『吾妻鏡必携』(→amazon)
上杉和彦『人物叢書 大江広元』(→amazon)
国史大辞典